言葉の死 rape 暴力

精神分析や心理学のテーマを扱っている最近の映画になると、事情はまるで違う。遊びや芸術のために扱っているという形跡がもう見あたらないのだ。意図もちがえば、効果もまるっきりちがうのである。脚本家も監督も〈子ども時代〉ウイルスに「感染」していて、心理学の認識やそれに類したものを、あたかも真実「そのもの」であるかのように描いている。
その系列の心理映画でとりわけ「印象深い」例は、一九九一年制作の『プリンス・オブ・タイド』だ。



『プリンス・オブ・タイド』は最近の心理映画の典型である。またここには、ある世代が心理学について抱いている信仰の体系が描かれている。・・・・・・・・この数年、アメリカのセラピー市場を洪水のように見舞い、ちょっと遅れてドイツにも信奉者が出てきた動きがあるが、映画の脚本は明らかにこの動向を反映している。



映画『プリンス・オブ・タイド』が興味深いのは、なによりもそこに、「〈子ども時代〉が人生を決める」という信仰の全成分が含まれているからだ。この映画は心理学の現場のメッセージを無批判に取り上げて、目立つように編集し、その普及に力を貸している。



――そして最後に、この映画が伝えているのは、心理学のエキスパートは全能だという危ないイメージである。エキスパートなら真実を知っている。患者やクライアントが抵抗して、エキスパートの誘導に乗ってこない場合(「精神科医なんて、ごろつきだよ、まったく」)、それは抵抗にすぎず、遅かれ早かれ、問題の人物は真実を知るようになる。「ぼくは誰をだまそうとしたんだろう」。そして、どんなに遅くとも、心理学のエキスパートが介入した段階で、自分の感情や自分の真実には信頼が置けなくなる、というメッセージが、観客の頭にこびりついて残るのである。



『プリンス・オブ・タイド』のような映画のおかげで、〈子ども時代〉、抑圧、トラウマ、記憶などにかんする話が、ますます頻繁に語られるようになる。世の常として、そういう話を聞けば聞くほど、ますます本当らしく思えてくる。