fantasy


Your reality is afantasy, and your fantasy is killing me.


そのような大人たちと子供たちの共同幻想のうえに、私のこの漫画は存在するのだと思います。そうそれは、幻想です。
たぶん私はその幻想にくみしています。少年少女期を、なにかすばらしいもののように思う幻想です。(榎本ナリコ


男女が互いに好きになれば結婚するものだという「恋愛結婚」が主流になったのは、実は「一九四〇年体制」に端をを発する。自由経済に対する国家による統制経済的体制である「一九四〇年体制」は、男女のあり方に対しても、社会統制を戦時中に強めていった。戦中期には、若い男女が一緒に街を歩くことも禁じられたが、それは、家族外での恋愛や性関係を国家によって統制し、家族の秩序や道徳を強調するためであった。言い換えれば、恋愛感情を家族の中に囲い込む「恋愛結婚イデオロギー」が国策として徹底利用されたのである。国家は大きな家族であり、天皇の下に無数の家族があり、家族の中には家長がいて、女子どもを統制する。家長の目の届かないところで娘が恋愛感情や性関係を持つことは禁止され、すべてのエロスとセクシュアリティは家庭内でのみ許されることになった。夜這いや農村での祭りの夜のフリーセックスは前近代的な悪習として放逐されていった。夜這いに代わって近代売春制度が普及し、それは国家によって管理された。家庭の中では、家長と家婦は「性愛」で結ばれており、親と子は愛情で結びつく。性愛感情は家長に対する家婦の従属を巧妙に隠蔽する。二十一世紀になっても、婚姻外でのセックスで妊娠が生じれば「できちゃった婚」によってやすやすと婚姻の中に男女が回収されていくのも「一九四〇年体制」の影響が払拭されていないからである。



近代になって発生したロマンティック・ラブを日本で最初に体現したのは、明治時代に現れた、なんらかの形でキリスト教と縁のある高学歴男女のカップルである。彼らは、お見合いで出会っていることが多い。そして、禁欲的な一夫一婦制を、相手への貞節ゆえに遵守し、男性の蓄妾制度を封建的時代の陋習として、断固としてこれを斥けたのである。家庭は聖なる場所であり、酒に酔って妻に暴力を振るったり、大声で怒鳴ったりする「殿方の過ち」を矯正させるためには妻は夫の人格を陶冶するほど純潔な存在でなければならない。お互いを尊重し、終生連れ添って、家庭を「愛」の実現した場にする。そういう美風こそ、ロマンティック・ラブの結実したものである。互いに対等であるためには、妻には教養が必要であり、結局は家と家が釣り合っていなければ、結婚の理想は実現できない。従ってお見合い結婚ほど、ロマンティック・ラブの豊かな土壌となるものはない。



日本のお見合い結婚は、キリスト教の宣教師が運んできたロマンティック・ラブの実践でありながら、しかし同時に旧支配階層の家制度意識を庶民にまで拡大する機能も併せ持った奇妙な風習であった。
結局、ロマンティック・ラブとは、もともと育ちのよい、西欧化された教養を持つ、蓄妾制度をマチズモの証としないという意味において女性的な(通常はこれを紳士的と呼ぶ)男性と、夫の純潔をはなから疑わないという意味では夫以上に純潔な妻の間にしか棲息しない感情であった。結ばれるときには、生涯かけて相手を愛することを自らに誓う契約結婚であり、一時の衝動による結びつきではない。不貞、特に妻の不貞は、同格の両家の財産を脅かすので強く戒められ、そういう自戒は女性に内面化され、相手への貞節を自分が望んでいるのだという錯覚を作り出す。それは理性的であるからして、なにがしか低体温であり、継続的であるからして、なにがしか不完全燃焼である。しかし、よく言えば、精謐な夫婦愛となって、子どもたちには理想的な両親となる。(小倉千加子


学校



一つは、社会形態への変化への絶望と文化的ラディカリズムへの批判です。今や世の中がすっかり安定してしまって、なまなかのことでは社会形態が変化するとは思えなくなってしまっています。法がいかに改正されようと、それはしょせんハードウェアの問題であって、ソフト面ではいくらでも運用可能だし、□□にとって真に利益となる法改正が行われても、いつの間にか骨抜きにされてしまって、結局多くの□□たちは絶望と馴れ合って生きているのです。

その上、社会体制そのものが変われば□□がもっと幸福になれるかという問いへの答えは、「社会主義の国を見よ」というものです。まさに政治的解決なんてなんの役にも立たないというわけです。政治への期待が風化してしまった状況では、人々はラディカリズムを好みません。新左翼のそれであれ、ウーマン・リブのそれであれ、結局は政治と企業の官僚制の前に敗北してしまったのですから、今さら無益な熱狂に身を投じるような真似はだれもしたくないのです。

社会の安定と見えるのは、人々の静かな諦念のことです。諦念とは無感動のことであり、無感動――感情の冬眠――にとってサイコロジーほど魅力的なものはありません。心理学の流行は、だから社会の不健康さの証です。

問題を社会的に解決できなかった人だけが、それを個人的悩みに――それも普遍的な悩みに――すり替えるのです。ちょうど、嫁と姑の確執を、嫁との人間関係の場で解決できなかった姑がポックリ寺に詣るように。かつてのニュー・レフトたちはすっかり自然食品とジョギングとラマーズ法の信奉者になってしまい、いい年をして魂のスーパーマーケットをまだ彷徨しているのです。

現代人はほとんどが、内心では「世の中なんて変わらない」とあきらめて生きているために、「社会を変えなくていい、問題は社会にではなく、あなたの内部にあるのだ」と言ってもらいたがっているからです。

状況変革からの逃避の口実として「物体化」があるとすれば、実存的反応からの逃避の口実として「生物学的本能」や「性ホルモン」「染色体」があるのです。これらは、血液型と同じカテゴリーに入ります。
小倉千加子











精神分析や心理学のテーマを扱っている最近の映画になると、事情はまるで違う。遊びや芸術のために扱っているという形跡がもう見あたらないのだ。意図もちがえば、効果もまるっきりちがうのである。脚本家も監督も〈子ども時代〉ウイルスに「感染」していて、心理学の認識やそれに類したものを、あたかも真実「そのもの」であるかのように描いている。
その系列の心理映画でとりわけ「印象深い」例は、一九九一年制作の『プリンス・オブ・タイド』だ。



『プリンス・オブ・タイド』は最近の心理映画の典型である。またここには、ある世代が心理学について抱いている信仰の体系が描かれている。・・・・・・・・この数年、アメリカのセラピー市場を洪水のように見舞い、ちょっと遅れてドイツにも信奉者が出てきた動きがあるが、映画の脚本は明らかにこの動向を反映している。



映画『プリンス・オブ・タイド』が興味深いのは、なによりもそこに、「〈子ども時代〉が人生を決める」という信仰の全成分が含まれているからだ。この映画は心理学の現場のメッセージを無批判に取り上げて、目立つように編集し、その普及に力を貸している。



――そして最後に、この映画が伝えているのは、心理学のエキスパートは全能だという危ないイメージである。エキスパートなら真実を知っている。患者やクライアントが抵抗して、エキスパートの誘導に乗ってこない場合(「精神科医なんて、ごろつきだよ、まったく」)、それは抵抗にすぎず、遅かれ早かれ、問題の人物は真実を知るようになる。「ぼくは誰をだまそうとしたんだろう」。そして、どんなに遅くとも、心理学のエキスパートが介入した段階で、自分の感情や自分の真実には信頼が置けなくなる、というメッセージが、観客の頭にこびりついて残るのである。



『プリンス・オブ・タイド』のような映画のおかげで、〈子ども時代〉、抑圧、トラウマ、記憶などにかんする話が、ますます頻繁に語られるようになる。世の常として、そういう話を聞けば聞くほど、ますます本当らしく思えてくる。




そしてその確信は、あまりにも強いので、患者にも感染するのである。そして、子どもの頃にその種の恐ろしいことが起きたとは、患者自身にも信じられないこともあるが、しばしばその場合すら、トラウマ療法家に言わせれば、否認をつづけざるをえない患者の恐怖の証明にすぎないのである。








絆の理論の研究は印象深く、その発言には説得力があるように見える。だがその結論は、実際の批判にたえるものだろうか。あやふやな絆とか確かな絆とかは、一人の人間のその後の発達に影響するものなのだろうか。批判の声は、ますます大きくなっている。



(〈傷つきやすい子ども〉という神話/ウルズラ・ヌーバー)



しかし以上のような×××の場合に起きうることが、果たして、「□□にとって最大の侮辱である」ということにつながるのだろうか。そういった事態がいくつ集められても「最大の侮辱」までには結晶しないのではないだろうか。「□□にとって」といった場合、それは「○○にとって」という側面では成立し得ない侮辱として考えられねばならない。生命権や身体のコントロール云々は「□□にとって」特有に発生する問題ではない。「男にとって」も同様に起こりうる問題である。そうすると「女にとって」といった場合に最大の侮辱として働きうる要因は×××には見いだせないことになる。



×××は犯罪として成立しにくいと言われる。それはなぜか。被害者が×××者を告発しないからである。いや、告発できないからである。なぜ告発できないのか。それは「×××された」という事実よりも、犯人による仕返しが恐いからというよりも、社会からのレイベリングが被害者を容赦なく望まない形で切り取ってしまうことによる。スティグマへのおそれだ。



×××という行為が、□□への侮辱を通して○○の自己保存のために機能しないとすれば、○○にとって□□を×××する意味はなくなってしまうということになる。 、「×××は□□に対する最大の侮辱」という言説がふりまかれ、それが浸透し、そして□□自身がそう感じることによって一番満足を覚えるのはほかでもない×××者である、 。 ×××の被害性を強く訴えることは、すなわち被害者を最大に侮辱しようとした×××者を満足させることであり、ますます×××が×××者にとって意味のある「□□に対する最大の侮辱」となりうる神話を相互に補完しあう循環へと陥ってしまうのである。×××による被害の甚大さを嘆くことは、×××者を喜ばしこそすれ、被害者にとっては何の処方箋にもなりはしないのである。




http://www.kinokopress.com/civil/0103.htm



いったんできあがってしまった論理には、もはやそれ以外の解釈を許容する余地はない。断片はそれぞれの場所にしっかりとはめこまれ、けっして揺らぐことはない。結果には絶大な確信がおかれ、その解釈「以外のいかなるものも」頭に浮かばない。ある意味で、妄想症の人間は典型的な緻密きわまりない科学者に似ているともいえる。(エヴリンフォクスケラー)






その話をすると「人間はいざとなったら逃げるものだよ」と信じない人もいるが、私はそうは思わない。人は最期まで「社会」に生きている。命の危険を感じたとしても、「逃げる」一歩を踏み出せる人はどのくらいいるだろう。兵隊よりも、爆弾よりも怖い、「監視」の視線の中で。最初の一歩を踏み出せる自由を奪うことが、「暴力」のある世界なのだから。 (北原みのり)