言葉の死 rape 暴力


一つは、社会形態への変化への絶望と文化的ラディカリズムへの批判です。今や世の中がすっかり安定してしまって、なまなかのことでは社会形態が変化するとは思えなくなってしまっています。法がいかに改正されようと、それはしょせんハードウェアの問題であって、ソフト面ではいくらでも運用可能だし、□□にとって真に利益となる法改正が行われても、いつの間にか骨抜きにされてしまって、結局多くの□□たちは絶望と馴れ合って生きているのです。

その上、社会体制そのものが変われば□□がもっと幸福になれるかという問いへの答えは、「社会主義の国を見よ」というものです。まさに政治的解決なんてなんの役にも立たないというわけです。政治への期待が風化してしまった状況では、人々はラディカリズムを好みません。新左翼のそれであれ、ウーマン・リブのそれであれ、結局は政治と企業の官僚制の前に敗北してしまったのですから、今さら無益な熱狂に身を投じるような真似はだれもしたくないのです。

社会の安定と見えるのは、人々の静かな諦念のことです。諦念とは無感動のことであり、無感動――感情の冬眠――にとってサイコロジーほど魅力的なものはありません。心理学の流行は、だから社会の不健康さの証です。

問題を社会的に解決できなかった人だけが、それを個人的悩みに――それも普遍的な悩みに――すり替えるのです。ちょうど、嫁と姑の確執を、嫁との人間関係の場で解決できなかった姑がポックリ寺に詣るように。かつてのニュー・レフトたちはすっかり自然食品とジョギングとラマーズ法の信奉者になってしまい、いい年をして魂のスーパーマーケットをまだ彷徨しているのです。

現代人はほとんどが、内心では「世の中なんて変わらない」とあきらめて生きているために、「社会を変えなくていい、問題は社会にではなく、あなたの内部にあるのだ」と言ってもらいたがっているからです。

状況変革からの逃避の口実として「物体化」があるとすれば、実存的反応からの逃避の口実として「生物学的本能」や「性ホルモン」「染色体」があるのです。これらは、血液型と同じカテゴリーに入ります。
小倉千加子