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ethnic,national,nostalgia....





キリスト教世界では独裁への反対が民主化運動というかたちをとったのにたいし、イスラム諸国ではイスラム教が同じ役割を担ったのであり、その背景にある事情も多くが共通していた。

キリスト教国で司祭や牧師、そして一般信徒からなる宗教組織が反独裁運動で大きな役割をはたしたように、イスラム諸国でもウマラーのみならず、モスクを中心とする集団や一般のイスラム教徒たちが、独裁権力にたいして反旗をひるがえした。ポーランド共産党政権が崩壊するにあたっては、ローマ教皇の存在が中心的な役割をはたしたが、イランでもアヤトラが中心となってシャーの政権を倒したのである。
一九八〇年代から九〇年代にかけて、イスラム圏の各国ではイスラム復興運動が反体制運動のなかで圧倒的な力をもち、多くの場合、独占的ですらある。その強さの源は、一つにはほかに反体制運動を担いうる有力な勢力がないことである。


イスラム勢力が反政府運動のなかで圧倒的な存在となりえたのも、非宗教的な反政府勢力を政府が抑圧したことが一因となった。原理主義運動の力は、非宗教的民主化勢力や民族主義勢力の力と反比例する関係にあり、モロッコやトルコなど複数政党の競合がある程度認められている国は、あらゆる反体制運動を認めていない国にくらべて弱い。非宗教的な反体制勢力は、宗教的な運動よりも弾圧にたいして脆弱である。後者の場合、モスク、慈善団体、事業団体などのイスラム系組織のネットワークを利用し、またそれらの背後に隠れて活動できる。政府もこれらの団体を弾圧することは難しい。自由主義勢力にはこうした隠れみのがないため、政府による統制の対象になりやすく、容易に解散させられてしまうのである。


…人々はイスラム復興の経験から、道徳、アイデンティティ、存在意義、信仰については「イスラムが解決策である」ことを知るが、社会の不公正、政治的抑圧、経済の後進性、軍事力の不足などをイスラムが解決してはくれないことを学んでいるはずである。…
いずれにせよ、これからの数十年間… (文明の衝突


では、どこが混同なのでしょう。ここにいわれている土井のいうオモテとウラ、これが彼の考える古代以来の「表と裏」という対概念と、じつはもう、違っているのです。


そもそも仏教は死者祭祀に関心を示さない宗教なのですが、中国経由で列島に入り、自然宗教の衣をつけることになって、ここに葬式仏教というもっぱら死後の問題をつかさどる仏教ができることになったのです。


折口から見ると、明治以降の神道は、国家の都合にあわせて作られた不出来な宗教の断片の寄せ集めにすぎません。国家の指導原理だとされた「禊」も、これを「近年になって考えた人は神道以外の人であり」、その説明も「神道のうちでも本流ではないといえる人達」によって行われました。そこには多くの西洋の翻訳が流れ込んですらいます。折口は現在の神前結婚では、花婿が花嫁に盃を差し出しているけども、盃を人にあげるのはその人に負けること、服従すること、忠誠を誓うことを意味する。嫁から婿に差し出すのが本流で、いまのやり方は明治以来の「理屈」に立ったものだと切って捨てています。
僕がこの折口の対応を見て目を瞠るようだったのは、彼のめざす方向が当時の日本の動向とまったく逆向きで、それこそ近代以降の問題を見据えていると感じられたからです


さて、明治政府はキリシタン禁制だけは徳川幕府から引きつぎました。天皇を、神威をもった新しい支配者として権威づけ、統治を容易ならしめようというのが明治政府の狙いでしたから、違う神威に服するキリスト教はその妨げになると考えたからです。
当初、明治政府天皇を中心とする国家神道を国教にしようと、廃仏毀釈令を出し、寺院を破壊し、また神道国家神道化をめざして、神社の統廃合を進め、あの古来の村の神々の社や祠を一方的に統合したり、潰したりしてゆきます。しかし、その動きに対して、仏教、キリスト教神道の側からそれぞれ反対の声があがります。前二者からの批判とは、宗教を国家が自分の都合で作るなどということはやるべきではない、欧米では信教の自由は人間の天賦の権利とみなされている、といったものですが、神道の側からはその逆の批判がなされます。神道は個人主体の宗教ではない、きわめて公的な色彩をおびたそもそもが外形だけの儀礼の体系なのだから、これを宗教にして広めるのは、お門違いだというのです。
いわばタテマエとホンネという考え方の原型が信教の自由という形で示された時、ここにいう内面だけの本心(ホンネ)は本心ではない〔=外形化を禁じられた信仰は信仰ではない〕という根本的な批判は現れませんでした。その代わりに現れたのが、ホンネ(内面だけの信仰)をこそ尊いと見、そこで信を確立できれば俗界での現れは二の次と考えるたとえば浄土真宗の「真俗二諦」論に立つ考え方であり、また、いや、ホンネなどどうでもいい、「本心」はむしろ外形(タテマエ)のほうにある、という神道主義者の側から出てきた神道非宗教論だったのです。
この神道非宗教論があの日本における「自然宗教」と「創唱宗教」の分岐に立脚していることがわかるでしょう。明治になって「宗教」という考え方が導入された時、明治の人は、ここにいう「創唱宗教」を念頭にこの概念を作りました。ですから、「宗教」という名前が生まれ、そういう概念ができてみると、これまで大半の日本人の宗教意識の根源にあった自然宗教、ご先祖様への畏敬とか村の社のカミへの崇敬といった信仰心は、それに合致しない下等な信仰として排除され、旧套の迷信、俗信、習俗へと身を落とすことになりました。神道は、もともとこの自然宗教を母体にしています。そして国家神道は、さらにこの神道を基盤に、これを国家の統轄のもとにおこうという擬似宗教です。従来の「創唱宗教」が、内面の尊さをとるなら、自分は彼らが捨てた外面をとる、それで自分は何の不足もない、という形で国家神道は、従来の宗教界と国家の国教化の動きの対立の間隙をついて、浮上してくるのです。

十九世紀の末、大日本帝国憲法が発布されるのが一八八九年、そして若きポール・ヴァレリィが旅先のジェノヴァで先に述べた自分の考えを世には示すまいという「知的クーデタ」に襲われるのが一八九二年です。井上毅が、人間には内面がある、それに国家は手をつけない、その代わり、信仰も内面から外に出た場合には国家の法に従ってくれ、という巧妙な「内と外の分断」という考えを示した時、それは、同時代の人間に西欧近代の公的なものと私的なものの二元論に則った最新の思想の提示と映りました。しかし、目にそう映っただけではなく、事実それは、ヨーロッパ近代の最新の思想だったのです。タテマエとホンネという考え方がこの延長線上で戦後の日本に現れ、そこでホンネの意味が「口に出された」本心から「口に出されない」本心に変わった時、そのことの意味に僕達が気づかなかったことの背景には、その淵源を辿ると、これだけの歴史――「近代の嘘」の来歴――があることがわかります。
(日本の無思想/加藤典洋


一つは、このタイプの失言は、戦後になって現れている、ということです。
そしてもう一つは、このタイプの失言がほぼ似た形で観察されるのは、日本以外ではドイツ、イタリアくらいで、つまり、ともに、第二次世界大戦の敗戦国だということです。

でも、その二国とも、一つだけ違うことがあります。それが、前言撤回と辞任とが、どうも日本でだけは、余り恥ずかしいものとは受けとめられていない、という先の点です。(日本の無思想/加藤典洋


しかし、出生率を国別に、あるいは国内で都道府県別に比較してみると、興味深いことが浮かび上がってくる。現在、世界で最も合計特殊出生率の低い国を順に挙げると、イタリア(1.15)、ドイツ(1.24)、そして日本(1.32)となる。これは、どこかで聞いた組み合わせではないか。そう、第二次世界大戦枢軸国三国である。かつてファシズムの国家体制によって、遅れていた近代化を一気に推し進めようとし、結果的に連合国に敗北した三カ国が、戦後五十年経って少子化に見舞われているのである。(結婚の条件/小倉千加子



男女が互いに好きになれば結婚するものだという「恋愛結婚」が主流になったのは、実は「一九四〇年体制」に端をを発する。自由経済に対する国家による統制経済的体制である「一九四〇年体制」は、男女のあり方に対しても、社会統制を戦時中に強めていった。戦中期には、若い男女が一緒に街を歩くことも禁じられたが、それは、家族外での恋愛や性関係を国家によって統制し、家族の秩序や道徳を強調するためであった。言い換えれば、恋愛感情を家族の中に囲い込む「恋愛結婚イデオロギー」が国策として徹底利用されたのである。国家は大きな家族であり、天皇の下に無数の家族があり、家族の中には家長がいて、女子どもを統制する。家長の目の届かないところで娘が恋愛感情や性関係を持つことは禁止され、すべてのエロスとセクシュアリティは家庭内でのみ許されることになった。夜這いや農村での祭りの夜のフリーセックスは前近代的な悪習として放逐されていった。夜這いに代わって近代売春制度が普及し、それは国家によって管理された。家庭の中では、家長と家婦は「性愛」で結ばれており、親と子は愛情で結びつく。性愛感情は家長に対する家婦の従属を巧妙に隠蔽する。二十一世紀になっても、婚姻外でのセックスで妊娠が生じれば「できちゃった婚」によってやすやすと婚姻の中に男女が回収されていくのも「一九四〇年体制」の影響が払拭されていないからである。

近代になって発生したロマンティック・ラブを日本で最初に体現したのは、明治時代に現れた、なんらかの形でキリスト教と縁のある高学歴男女のカップルである。彼らは、お見合いで出会っていることが多い。そして、禁欲的な一夫一婦制を、相手への貞節ゆえに遵守し、男性の蓄妾制度を封建的時代の陋習として、断固としてこれを斥けたのである。家庭は聖なる場所であり、酒に酔って妻に暴力を振るったり、大声で怒鳴ったりする「殿方の過ち」を矯正させるためには妻は夫の人格を陶冶するほど純潔な存在でなければならない。お互いを尊重し、終生連れ添って、家庭を「愛」の実現した場にする。そういう美風こそ、ロマンティック・ラブの結実したものである。互いに対等であるためには、妻には教養が必要であり、結局は家と家が釣り合っていなければ、結婚の理想は実現できない。従ってお見合い結婚ほど、ロマンティック・ラブの豊かな土壌となるものはない。

日本のお見合い結婚は、キリスト教の宣教師が運んできたロマンティック・ラブの実践でありながら、しかし同時に旧支配階層の家制度意識を庶民にまで拡大する機能も併せ持った奇妙な風習であった。結局、ロマンティック・ラブとは、もともと育ちのよい、西欧化された教養を持つ、蓄妾制度をマチズモの証としないという意味において女性的な(通常はこれを紳士的と呼ぶ)男性と、夫の純潔をはなから疑わないという意味では夫以上に純潔な妻の間にしか棲息しない感情であった。結ばれるときには、生涯かけて相手を愛することを自らに誓う契約結婚であり、一時の衝動による結びつきではない。不貞、特に妻の不貞は、同格の両家の財産を脅かすので強く戒められ、そういう自戒は女性に内面化され、相手への貞節を自分が望んでいるのだという錯覚を作り出す。それは理性的であるからして、なにがしか低体温であり、継続的であるからして、なにがしか不完全燃焼である。しかし、よく言えば、精謐な夫婦愛となって、子どもたちには理想的な両親となる。…
小倉千加子



欧米人にとって、家の大半は公共の場である。庭はもちろん、玄関や居間、台所まで、誰にでも公開されている。ホームパーティーという概念が生まれるのも、ここに根ざしている。彼等にとって、本当の意味での私的空間は、自分の部屋である。欧米人の家で、各部屋に鍵がかかる形式になっているのに常々違和感を覚えていたが、この精神構造に気がついて、はじめて納得できた。
一方、日本人にとっては、家の中はすべて私的空間だ。
日本人やタヒチ人にとって、家の中に公共の場は存在しない。公共の場として外部の人に提供されてきた場は、庭である。かつて日本では、近所の人が訪ねてきた時、庭先で対応するのが普通だった。用件が長引く場合は、庭と家の接点である縁側に座って話した。
タヒチにおいても、ほとんどの家に、庭で客を応対するためのテラス形式の場がある。

アパートやマンションといった集合住宅の形式は、欧米から導入されたものだ。
公共空間と私的空間の中間に位置する客間を設ける余裕はないし、ましてや日本人にとっての公共空間である庭があるわけではない。つまり、日本の集合住宅には、公共空間が欠如しているのだ。
坂東真砂子




「楽園タヒチ」のイメージは、観光ビジネスのおっかぶせた衣類にすぎない。その下には、世界の他の国同様、酒や麻薬への耽溺、窃盗犯罪などの青少年問題がしっかり根を下ろしている。

タヒチに来る前に暮らしていたイタリアでも同様だった。陽気で気楽な人々の住む、愛と笑いの国イタリア。だが、そのイメージに反して、私の住んでいた町では大学生たちの麻薬耽溺が大きな問題となっていた。私のアパートの近くの広場は麻薬常習者たちのたまり場と化し、路上に据えられた大きなごみ箱の陰で薬物中毒でふらふらになっている学生や、脱力感を漂わせてベンチに座っている若者たちをよく見かけた。


幸い、海には魚がいるし、豊饒な土地はさほど苦労をしなくても、果物や野菜を与えてくれる。気候は快適だから、極端に言えば家などなくても生きていける。しかし、困るのは現金だ。現金ばかりは土や海から生まれてきようはない。現金がないことには、車も買えない、テレビも買えない、映画にも行けない。マスコミによって喧伝される、砂糖やクリームをたっぷりまぶしたファッショナブルな生活が送れない。
坂東真砂子