the beautiful people


LAMB OF GOD

この曲のコーラスはアルバムの多くのことを表している。これは、特にアメリカで、彼らの死の商品価値のために、どのように主義のために殉じる人というものが出来ることをいっている。キリスト、レノン、そしてケネディは皆、そのようなドラマチックな方法で殺されている。私はそれが人々が彼らを聖人扱いした、理由の半分だと思っている。そして、それは人々が、暴力を愛し、そのドラマが好きだからだ。(マリリンマンソン)


がっしりとたくましい体つきをしたこの田舎の少女は、短い生涯で一度も写真を撮られたことがなかった。.......しかし聖像画家にためらいはなかった。マリア・ゴレッティはその死によって、スズランの花を胸に抱いた華奢で繊細な美女として偶像化され、ジョン・クールソン著『聖人たち』の「飛び抜けた美しさ」といった表現に代表されるような言葉で描かれている。

非業の――性的な意味あいを伴う――死を遂げた女をヒロインの地位まで持ち上げるのはキリスト教の考え方であり、旧約聖書ユダヤ教にこの考え方はみられない。受難の死を遂げる女は――いや、女ばかりか男も――実用主義的な旧約聖書には著しく欠如しており、逆に家父長的支配が未確立であることの結果として、力で勝利する強い女の痕跡がそこここに残されている。(スーザンブラウンミラー)

   


以前目にした映画監督アルフレッド・ヒッチコックのインタビューに、主演女優として望ましい女性の特質とは何かという質問があった。彼女たちに共通するのはある種の弱さだ、というヒッチコックの答えに、私は驚いたものだ。…

つまるところ、ヒッチコックの言葉は的を射ている、と私は考えた。彼の映画に主演した女優たちに共通していたのは「繊細さ」や「感性」ではなく、「弱さ」だったのだ。彼女たちは皆、傷つけられ、ものにされる存在であることをうまく演じたのである。…


(スーザンブラウンミラー)





その家族を分離させることでしか解決できない問題があまりにも多いからだ。美しい家族愛の実現によって解決するような問題があるのだろうかとさえ思われる。(信田さよ子)

これを美しい日本的家族の情景と呼んだ時代もあっただろう。しかし、同心円構造の揺らぎとともに、それは支配のつらなりとして見えてくる。(信田さよ子)







ある行為をどのように呼ぶか、名づけるか、それは定義づけることである。たとえば二〇〇一年の九月十一日の出来事をどのようにていぎするのだろう。テロか、聖戦か。その定義によって、そのひとの立場が明瞭になるだろう。(信田さよ子)






はっきり言えば、セックスにおける「愛」なんて、「性的ファンタジーの一種」でしかないと思ってる。「愛のあるセックスが一番」と言う人は、「アタシ・ボクは『愛』で興奮しちゃう体質なんです」と言ってるようなもの。「好きな人としかセックスしない」と言う人も、それは貞操観念とかそんなもんじゃなくて、「『愛』というファンタジーが、一番気持ちいいから」と言っているようなものでしょう? それがいい悪いとか言うんでは全くない。実際、私だって、「愛」ファンタジーけっこう好きだし、濡れちゃうし。でも、それが「ファンタジー」だと認識しているか、していないかは大きな違いだと思う。LPCのウエッブで連載している高山真さんも書いていたけれど、「愛のあるセックスが一番!」と偉そうに語る人間は、ファンタジーに(北原みのり)