anti-natural

しろいはな どこにさく よごれたてのなかにさく


自然 本能 本性 本名 ありのまま 素顔.......




×差別はそれ以外の差別と本質的に一線を画す、二つの特異性を孕んだ差別です。

一つは、今述べたように「これは差別ではない。××の自然な差異にもとづいた合理的な処遇である」というふう
に根拠としての自然=生物学的性差がもちだされる
点です。



現存する差別のなかで、たとえば被差別部落の問題をとりあげるなら、部落差別を自然を根拠に正当化する人はだれもいません。生物学的差異などというものが、この差別のなかに存在する余地などないことは自明のこととされています。

しかし×差別は違います。
×性と×性は異なる身体をもち、精神機能においても異なっていると思われるがゆえに、その心理的×差は、身体的×差に還元して説明されてしまうのです。つまり、あらかじめある実体が会って、それをベースにして関係が決まる。したがって関係の非相称は、実体に固有の非相称の反映にしかすぎぬという考え方が、×差別にはついてまわり、これは×差別そのものが結局は存在しないという立場を導き出すのです。

私が前の章で指摘したユングの元型論は、まさにこの立場を強固にする点にあるのです。彼は、×と×は実体なのだと断言しています。どのような実体なのかといえば、それは補完しあう関係になるような実態、つまり凸と凹としての対称的実体です。×は本質的に理論的であり、×は理論性を欠くがゆえに本質的に感情的であり、両者の特徴は遺伝的に決定されているのだと、彼は考えるのです。

小倉千加子





ウィーンでは、ユダヤ人が直接ピルツに反論を試みていた。医師で人類学者のイグナツ・ツォルシャンはこう論じる。「ユダヤ人には精神を病むものが多いため、書物に描かれるユダヤ人の将来はひたすら暗いものばかりだ。…… ……ユダヤ人の神経系は特に繊細で感じやすくできている。ユダヤ人は、粗野な小作農の神経よりも、刺激に対して敏感に反応する。これを神経衰弱とみなすべきではない。ユダヤ人の「精神病」を、ユダヤ人の神経系が他民族よりはるかに発達している結果として片付けたかに見えるが、しかしツォルシャンといえども、当時の疫学文献の影響を受けないではいられなかった。ユダヤ人は単一にして純粋な人種である、と力強く論じながら、それでもユダヤ人が統計上精神病にかかりやすいという議論は認めていたのだ。

フロイト・人種・ジェンダー/サンダー・L・ギルマン)




○と×は身体のしくみが違うのだから、互いの特性を理解し合って、助けあい補いあって生活しよう」という言説は何を教えたいのか、私にはよくわかりません。

小倉千加子




あら? あなたがイヤなのは、セックスで規定される「ジェンダー」じゃなかった? ジェンダー・ロールなんて、楽しむことも可能よ! という声も聞こえてくる。十年一日のごとく変わらない「女」への視線の中、心の中で舌を出しながら女ジェンダーを楽しもう・利用しよう、という飛び方もある。真っ正面にチンコ社会と戦って消耗するのではなく低燃費で生きる技術を身につけようよ、というポジティブな意見もある。(遙洋子さんの最新作『ハイブリッドウーマン』はそういう生き方を提案してましたね)

北原みのり




 17世紀末になると,商業の発展とともに都市部の商人は,経済的に確固たる地位を築き上げるようになります。しかし,江戸幕府による儒教思想の浸透にともない,商人はその道徳的規範を失いかけていました。農民が社会の基盤とみなされていたのに対して,商人は何も生産せず,売り買いだけで労せずして利益を得ると蔑視されていたからです。



 梅岩が独自の学問・思想を創造したのも,そうした商人の精神的苦境を救うためでした。彼は,士農工商という現実社会の秩序を肯定し,それを人間の上下ではなく単なる職業区分ととらえるなど,儒教思想を取り込むような形で庶民に説いていきました。倹約や正直,堪忍といった主な梅岩の教えも,それまでの儒教倫理をベースとしたものでした。また,商人にとっての利潤を,武士の俸禄と同じように正当なものと認め,商人蔑視の風潮を否定しました。

http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/bunka19.html





ですから、あらかじめ、「男は論理的だが、女は感情的」という ステレオタイプを押しつけておいて、論理を持たないかぎりにおいては、女はいかに感情的になろうが、それは「愛」してやることで埋め合わせられるので男は脅威を感じないのです。

また、たとえ女が論理的になったとしても「女の論理」と論理に冠詞をつけることで、かたづけることもできます。「女の論理」とは、二流の論理、似非論理のことです

ですから、論理的になろうとする女はそれだけで、潤いのない干からびた女、男への愛の欲求不満のあげく、女の地位から落ちこぼれた女と見なされ、その二流の論理は、男の正しき論理でたやすく封じ込めることができると思われるのです。(小倉千加子 1995)




ユダヤ人には門外不出の健康の秘訣がある、という見解を彼は認めている。マーシュの論には、ユダヤ人には偶然の結果生まれた特別な免疫があって病気になりにくい、という含みがある。…



…『モーセ一神教』において、フロイトは、「ユダヤ人が神に選ばれたことに対して非ユダヤ人が怒りを覚えるのはユダヤ人の身体の特性である」というパオロ・マンテガッツァの見解を支持しているが、「健康な」ユダヤ人の身体の特性を共有したいと望んだマーシェは、これを逆転させたわけだ。

マーシェは、認識論的立場からはっきりとユダヤ人科学者を告発する。ユダヤ人科学者は、ユダヤ人男性であるがゆえに科学者としての中立的な立場を取りえないというのだ。だとすると、ユダヤ人科学者がユダヤ人の身体の性質を研究したところで、真実を語ることはできない、ユダヤ人科学者のものの見方は、割礼を受けた自身の身体と同じく、ユダヤアイデンティティを刻みこまれているのだから。







十九世紀から二十世紀初頭に至るまで、ユダヤ人の精神病をめぐる神話を研究するために、多くのアプローチが試みられた。ヨーロッパ、特にドイツとフランスでは、すべての少数民族(特にユダヤ人)に対して一般大衆がどのような態度をとっていたかが、生物学によってはっきりと示された。ユダヤ人には精神病になる素因があるという科学的「事実」は、科学の正当な武器として機能するが、社会はこの武器を利用して、ユダヤ人を精神異常者扱いすることもできたはずだ。しかし、現実派ちょうど反対であった。支配集団は、ユダヤ人を目に見えない所に追い出し、精神病院に入れることも考えただろうが、現実にできたことといえば、ユダヤ人=狂人説を公に打ち出すことぐらいであった。××と同じく、ユダヤ人にはもともと、特殊な精神病になる生物学的素因がある。それゆえ、同時代に支配集団に対して独自の政治的要求を突き付けていた××たちのように、ユダヤ人も、異常だから支配集団に入るべきではない、と排斥されても仕方なかったのだ。アメリカの奴隷は、奴隷の身から逃げ出したいと思っただけで狂人のレッテルを貼られたが、同じようにユダヤ人も、十八世紀の政治的解放を通じて手に入れた規約に則って行動すれば、それだけで精神異常者とみなされた。ユダヤ人医師は、19世紀医学のレトリックを受け入れながらも、このモデルを自分に適用する場合は但し書きを付けざるを得なかった。…



(サンダー・L・ギルマン)









靴と車椅子の違いがあるだけで、自分の力でA地点からB地点まで移動したということに、なんの違いもない。「障害者」を生み出しているのは、紛れもなく、環境の不備なのだ。

(五体不満足/乙武洋匡 1998 p259)








言葉につきまとう負のイメージがどうしてもある。…



だけど、想像以上に、「××××」という言葉は、汚れていたりする。

「××××」は、エロであり、ポルノであり、「やる」ことであり……、純粋にオンナの性器としての名前ではない。というよりも、オンナの性器自体がもう、エロであり、ポルノであり、「やる」もんである……というイメージからどうしても抜けない。

で、□□□たちは、そんな薄汚れた言葉を、自分の美しい性器に名づけることを拒否する。



この言葉を連発するのは、昔気質のフェミニストか、セックスマニアの人々くらいで、フツーの感覚で、「××××」とナチュラルに口にする人はほとんどいない。そう、団塊世代のフェミの試みは、失敗したのだ。

で、これは、だいたい「セックス」周辺のすべての言葉にも当てはまる。セックスに関連するものはすべて、「エロ」に位置づけられ、そして薄汚れていく。(北原みのり







何を文化と呼び、何を自然と名づけるか、その命名の段階ですでに目に見えない権力が作動しているのです。





「素直じゃない」という鋳型を人に押し当てる

この暴力を行使する人は

何で私が素直じゃないんですか? 無理スルコトナインダゼ にやにやしながら 

自説を一歩も変えようとはしない。彼はもう決めてしまったのであり

すべての言葉を「素直」というひとことによって封じてしまいたい


「素直じゃないな」「もっと素直になれよ」と語る人は、まさになにが素直か議論しないことをもくろんでいる。それについてあれこれ議論することそのこと自体が「素直じゃない」から。



「すなおに」 言外に「この映画に感動しないなんてリクツや分別にとらわれているからだ」と匂わせようというトリック

(主に誰かからの引用だけどかなり不正確)




ところが科学界の構成員の多くに特徴的なのは、自分たちが研究している世界は直接理解することが可能であり、それは言語ではなく論理や実験によってのみ形成される概念で表すことができるという共通の前提に立っていることだ。

したがって科学の記述的言語は無色透明で中立的なものであり、なんら吟味する必要はないということになる。

言語が無色透明であるという確信はその言語が絶対的であるとの信念を生む。それによって、言語はメンバーであることを確かめる手段としてだけでなく、科学という学問領域の境界線を守るための排他的申し合わせを強化する役割もになう。こうして、透明と前提された言語は不透過性のものとなる。通り抜けようとする者に対して境界線を閉鎖すれば、自分自身の言語が避けがたく自己補強的であること――それどころか自己目的でさえあること――は、目に見えないままである。

(エブリン・フォックス・ケラー?)





一つの神話―まじめにとりあげようがない、とりあげるべきではない

そんなことは「自明」であり、同時に「無意味」でもあるのだ。自明なのは、もはやそれが誰もが知っている常識だからであり、無意味なのは、それが系統的な知の領域の外に属しており、そればかりか感情的にも性的にも中立な科学のイメージとは矛盾しているからである。





意識的に省みられない神話は、どこに棲みついたものであれ、ひそかに力を発揮する。本人の気づかないところで思考そのものに影響を与え、しかも気づかない分だけその影響に対する抵抗力もそがれてしまうのだ。



科学界が今日もなお圧倒的に多数の男性によって占められているという事実は、科学的思考=男性という見方生んだ原因ではなく、そこから生じた結果なのだ。したがって論じるべきなのは現実ではなく思い込みのほうである



(同上?)





「自然」とは何を意味しているのでしょうか。「不自然」がよくないというのならば、洋服を着るのも、ヒゲをそるのも。ダムを建設するのも、森林を破壊してゴルフ場を作るのも、「不自然」です。



こんなふうに相手が「自然」という言葉を言い出したら、それは相手がここでこれ以上論理的に話し合う気はなく、自分の意見を押し付けて議論を打ち切りたいというサインなのです。

相手が「自然」を持ち出したら、それは感情論であり、こちらの意見を封じ込めたいというメッセージ。

そのことを知っていれば、余分な動揺はしなくてすむし、議論を続けるにしても混乱したり、敗北感で落ち込むことは避けられます。

(誰だっけ…?)



しかし大学の時、環境アセス会社のバイトで自然度別の地図の色分けを行い、人の影響を受けていない自然がほとんど残っていないことを知り驚いた。自分が豊かな自然だと思いこんでいたクヌギ・コナラなどの林も、二次林と呼ばれ、人が手を加えることで維持されてきた林であるし、草原の一部も、人為的な野焼きや草刈り、放牧などで保たれてきた自然だ。人が手を加えることで維持され、数を増やしてきた生物も少なくなかったのだ。・・・・・





 同様に気になるのは、「ホタル=自然」のような感覚の河川の自然保護に対する意識だ。ホタルの生息地を守り、発生を増やすことはある意味自然保護だと言える。しかしきわめて一面的な自然保護だ。ホタルが自然を代表しているわけではない。もっと多様な生き物が水系にいるはずなのに、人間が見て幻想的だからとか、観光に有利だという価値判断に思えてならない。本当に自然を守るのであれば、ホタル以外の生物への配慮がもっとされるべきである。ホタルを見ることで自然が残っていると錯覚するのは、緑を見ると自然が残っていると感じるのと同じようなもので、決して多様な自然ではない。それなのに、自然が残っているかのように言われることがある。まるで、「緑とホタルさえ残しておけば国民の目はごまかせるので、その陰で開発を進めよう」とでも考えているのかと勘ぐりたくなることもある。・・・・・




http://homepage3.nifty.com/JunOk/insects/whatnatu.htm









ニューヨーク州ブルックリンのある読者はこう述べる。「……私がいつでも怒りを覚える問題は、混血(バイレイシャル)の人々が、自分はアフリカ人だと改めて主張するために口にする言葉です。ブルーズを聴くから、私はアフリカ人だ。ハム・ホックやスウィートポテト・パイを食べるから、私はアフリカ人だ。……自分たちがいまもアフリカの血統にしがみつくことができると証明するために、頚肉やコラードやフライド・チキンをどれだけ食べているなどというのは、もうやめてほしいものです。」

ユダヤ人の身体/サンダー・L・ギルマン 1991)


















また、私は桜が好きだ。他にも好きな花は多い―アメリカフヨウヒルザキツキミソウタチアオイなど。けれどもやはり、桜にまさるものはない。が、手術前は桜を観ることができなかった。桜を見上げて歩いていると「女みたいなやつ」と思われてしまうのではないかとおそれたからだ。道端の花に目を留めることも、「女のすることだ」と思ってできなかった。ジェンダー・バイアスでがんじがらめだった。

ところがいまはどうだろう!平安朝の貴公子にでもなったつもりで、桜の下に佇むことができる。花屋に寄って売り子さんと談笑しながら、好きな花を吟味して買ってくることもできる。シンボル一つ付けただけで、ジェンダー・バイアスなど吹っ飛んでしまった。スナフキンも、パディントンも、ピングーも、「セサミストリート」も大好きだ!それがどうした!いまなら言える、なんでも言える。頭と身体の性が一致したいまなら、自分をそのままさらけ出しても、それが「一人の男」の個性なのだと思えるからである。

(ある性転換者の記録/虎井まさ衛(たぶん))








「私のなかにポッパー・リュンコイスに対するある特別な共感が生まれた。彼もまたユダヤ人の生きる苦しみを舐め、今日の文明が掲げる理想の無意味さを味わっていたのだから。」/フロイト




丁度好いコップが何処に行つても見付からないのだ どうしてこんなにビルも道路も増えて居るのに










そういって、○○○は天然のブスも天然の垂れ乳もあからさまに差別するくせに



オゾン層が壊れた空。きれいだから







クロスは「黒」と「白」の両親から生まれたアフリカ系アメリカ人女性。けれども彼女は、兄弟姉妹に比べて、かなり肌の色が明るい。そこで彼女は、兄弟にはわからないあうディレンマに直面することになった。「私が自分の事を<アフリカ系アメリカ人>と呼ぶと、私はしばしば自分の<白人の血>を否認していると非難されます。それで感情的・社会的に混乱しているとか、相手によっては『なりたがり[ワナ・ビー]』だとまで呼ばれるのです」内面的葛藤をはらんだ彼女のアイデンティティ感覚は、周囲の人間から病理的・不健康なものというラベルを貼られる。彼女は自分が「はじめ自分の同族たちから拒絶されているのだと感じていました。これは告発ではありません。これはただ、アメリカにおいてアフリカ系の人々を分割してきた、そしていまなお分割している、白い人種主義の名残に対する、一つの証言です。……私はこうして、またもや自分が<十分に黒くない>といって、謝らなくてはならないような気にさせられていることに気づくのです。」一九九〇年代のアフリカ系アメリカ人コミュニティにかけられる圧力は、もはや「パス」するかどうか、白人に見えるかどうかという問題―映画監督のスパイク・リークが最近の作品『スクール・デイズ』で描いたような―ではない。黒人が髪をまっすぐにしたり、肌の色を明るくしようと日々は、終わったのだ(もっともユダヤ人にとって鼻の整形手術の時代がすぎてはいないことも明らかだが)。

人は美学的規範に似る必要があり、アフリカ系アメリカ人社会では、それは肌の色の「黒」なのだ。

ユダヤ人の身体/サンダー・L・ギルマン 1991)






この過程は、もし***だけ見れば、同一種からランダムな突然変異によって異なる遺伝型の二種が分化したかのようにみえる。しかし***、***をみれば、遺伝子の変化が“原因”で種が分化したというよりも、むしろ、ある状況で表現型が分化し、それが遺伝型に“固定”されたと見なすべきであろう。





現在の分子生物学、そして“情報”を重視する現代社会では、シンボル側からパターン側を説明するのに重点が置かれている。たとえば、細胞の異なる状態はしばしば遺伝子の発現といった・・・略・・・たとえばルールとパターンの関係についていえば、各部分から全体を作る設計図を求め、描写するのが今の主流の生物学であるが、複雑系の立場ではむしろ、安定した設計図がいかに自発的に生じるかを考える。



そして、こうした問題は社会の発展過程の研究ともつながるであろう。ヒトの数が増すにつれて分化が始まり、階層構造をなす。さらに、この階層構造は社会規範へと固定されていく。また、多様な化学反応が互いに触媒していくシステムとしての生命の誕生過程は、多様な商品が互いに触媒的に再生産される状態としての資本主義システムの出現と共通な数理的構造をもつと思われる。

(21世紀、物理はどう変わるか/日本物理学会編 )











精神分析や心理学のテーマを扱っている最近の映画になると、事情はまるで違う。遊びや芸術のために扱っているという形跡がもう見あたらないのだ。意図もちがえば、効果もまるっきりちがうのである。脚本家も監督も〈子ども時代〉ウイルスに「感染」していて、心理学の認識やそれに類したものを、あたかも真実「そのもの」であるかのように描いている。
その系列の心理映画でとりわけ「印象深い」例は、一九九一年制作の『プリンス・オブ・タイド』だ。



『プリンス・オブ・タイド』は最近の心理映画の典型である。またここには、ある世代が心理学について抱いている信仰の体系が描かれている。・・・・・・・・この数年、アメリカのセラピー市場を洪水のように見舞い、ちょっと遅れてドイツにも信奉者が出てきた動きがあるが、映画の脚本は明らかにこの動向を反映している。



映画『プリンス・オブ・タイド』が興味深いのは、なによりもそこに、「〈子ども時代〉が人生を決める」という信仰の全成分が含まれているからだ。この映画は心理学の現場のメッセージを無批判に取り上げて、目立つように編集し、その普及に力を貸している。



――そして最後に、この映画が伝えているのは、心理学のエキスパートは全能だという危ないイメージである。エキスパートなら真実を知っている。患者やクライアントが抵抗して、エキスパートの誘導に乗ってこない場合(「精神科医なんて、ごろつきだよ、まったく」)、それは抵抗にすぎず、遅かれ早かれ、問題の人物は真実を知るようになる。「ぼくは誰をだまそうとしたんだろう」。そして、どんなに遅くとも、心理学のエキスパートが介入した段階で、自分の感情や自分の真実には信頼が置けなくなる、というメッセージが、観客の頭にこびりついて残るのである。



『プリンス・オブ・タイド』のような映画のおかげで、〈子ども時代〉、抑圧、トラウマ、記憶などにかんする話が、ますます頻繁に語られるようになる。世の常として、そういう話を聞けば聞くほど、ますます本当らしく思えてくる。



(〈傷つきやすい子ども〉という神話/ウルズラ・ヌーバー)






科学の歴史を知ることは、普遍的真理と称するものはすべて、いつかは滅びるという事実を知ることでもある。過去において科学的真理とされた洞察や自然現象のモデルはことごとく、その支持者が主張するより限定的であることが、時の経過とともに証明されてきた。科学において生産的な<違い>を生きつづけさせるためには、知的ヘゲモニーを求めるあらゆる主張を、それにふさわしい場所に収めること――すなわちそうした主張は本来、科学的というより政治的であると理解すること――が必要なのである。





私はマクリントックの職業人生を、「最終的に勇気と真理の前に敗退する偏見や無関心」の物語 あるいは「長年にわたる無視ののちにようやく報われる献身の物語」 としては
釈しなかった。また、今日「真理」として知られているものに近いものを偶然発見した「時代を先取りした」科学者の英雄譚とも解釈しなかった。私はこの物語を、科学の言語についての物語と解釈したのだ。いいかえればそれは、共通の科学的言語の世界が確立され、閉鎖性を高めながらも、一定の浸透性――ある時代においては理解されなかったものが、別の時代には受容されることを可能にするだけの――を保ちつづけるプロセスについての物語なのである。(エヴリン・フォックス・ケラー)





謙虚さの不足

マクリントックはいう。

「多くの研究は、研究者がある答えをそこに押しつけるためになされるのです――答はすでに用意されていて、彼らは対象になにを語らせたいかを[知っているの]ですから、なにも彼らに語りはしません。彼らはそれに気づきもしないし、たとえ気づいても間違いだと思って捨ててしまう。…ただ対象自信に語らせてやるだけでいいのに」。