(learned) helplessness; the Rapes


「俺は麻薬を、人が自分を無感覚にさせることを必要とすることを比喩的にとらえた。このアルバムはそれを言おうとしている。俺たちは感情を持たないようにされ、個性を持たず、意見を持たないように薦められている。このアルバム上では、麻薬は良い意味でも悪い意味でもない。」

「DisposableTeensは二つの主張がある。一つはどれだけ人が使い捨てのものになったかについてである。もう一つは、子供たちが
『搾取はしたいけど、あなたたちの意見は聞きたくない。』というふうに扱われていることについてなんだ。だから、子供たちが自
分に価値がないと思えば、他人もそう扱うに決まってるだろう?」


むしろ、東洋的大学の特質といったほうがよい。日本の上代の大学は、中国の大学制度を直輸入したものである。

今も昔も、「官を慕い官を頼み、官を恐れ官に諂う」人々があまりに多いということである。

結局彼らは、自分自身で論題を設定する自由を与えられたのに、・・・・・・いってみれば、刑務所のカギを開けて・・・大部分の囚人が監獄にとどまったようなものである。


いやなことをやらせる。そこに意味がある。いやなことをやっているうちにだんだんマヒしてきてしまう。いやなことがいやだってことを忘れてしまう。それが狙いなんです。
ただじっとしていればなんとかなる、慣れてしまえばそれほど苦痛でもなくなると思って、やがてきわめて受動的で依存的な性質の犬になってしまうのです。


増原の話が教えるのは、つまり、タテマエとホンネという考え方の根底にあるのは、この「どっちだっていいや」というニヒリズムだ、ということなのです。

ヨーロッパのナチズムは、ヴァレリィが外部の「社会」を侮蔑し、内面の純粋さを究めようとしている時、その外部をごっそりもぎとってゆきました。日本の国家神道もまったくそれと同じ動きを示し、「内」を捨てて「外」だけを選び取ることで、日本社会を制覇しています。国家神道が自ら非宗教であるほうを選び、単に表向きだけのタテマエでいいのだから、頭を下げるマネだけしてくれという論法で、世の宗教家達の敬虔な心の破ってきたということが・・・・・・
タテマエだからと誰もが意に介さず、「聖人は俗にしたがう」とばかり、「心」の精進を続けていたら、そのタテマエと思われていたものに、それこそタテマエ−外形だけ−のまま、戦前の日本人がことごとく支配されてしまったのです。・・・