読書メモ

 言葉とは、おとなとこどもで、大きなずれをもつものなのです。
 このずれは、生活のなかで徐々に埋めあっていくものなのですが、こ
れが実に難しい。たとえば、予防接種。自分の味方だと思っていた母親
が、突然嘘をつく。「痛くないわよ」などとあやしくあやしながら、自
分に襲いかかる医者の手助けをするのです。
 言葉は、それ自体で詐欺の始まり。嘘つきは、おとなの始まり。

 それでも、裏切りを許す天才がこども。実は、すぐに忘れて、気をと
りなおすという、年とともに失われていく才能を乳幼児はふんだんにも
っているわけです。病院で大泣きした帰り道、突然立ち止まって「ねI、
ママ。お布団、泣いてる」なんていいだす。よく見ると、庭先に干され
たばかりのシーツから、滴が落ちている。
 ここで、布団が泣くわけはないと、合理的説明を加える親は少数派。
たいていは思わずほろりとして「おふとんも、注射したけど、もう平気
になったんだよ」なんてかわいい嘘で包みこむ。合理主義者から見れば、
だましあいで育ちあうのが親子ということ。
 嘘が問題なのではありません。大切なのは、嘘もホントも、おたがい
の問でどう共有されていくのかという「関係性の方向」にあるのです。
 それにしても「嘘は泥棒の始まり」程度の嘘なら、罪はまだ軽い。
 この秋、神戸の事件に、行為障害という筋書きどおりに作文された診
断が下されたと報道する記事がでました。

(こども、こころ学/石川憲彦さん 一九九八年 冬)