読書メモ

 昨春、私の母は、八五年の生涯で初めての手術を受けました。経過は
きわめて良好なのですが、術後がっくり落ちこんでいます。
 「裸にされた!」
 物心ついてから、他人に裸身をさらすような醜態は、コ院も演じたこ
とがない。こんな恥を耐えるくらいなら死んだほうがましだったと、今
年になっても嘆くのです。この考え方は、ある意味で病的です。ぐずぐ
ず嘆くのは、うつ状態。手術の合目的性を理解できないのは、思考障害。
老人性精神異常と考える医者もいるでしょう。
 母に恨まれて思いだしたのが、白木屋の火事。着物の裾が乱れるのを
恐れて、飛び降りることを拒否した女性が、幾人も焼死した事件です。

明治の女性は、今日では異常とされかねない価値観をもっていた。そう
考えると正常ですが、八〇歳にもなって過去への幼児の頃のような固執
傾向が残存しているとみなせば、病気です。
 いったい、普通って何でしょう。

(こども、こころ学/石川憲彦さん 一九九四年 春)