--の宗教へようこそ

 しかし、精神の病となると、話はまったく別。さすがに、「精神病は
伝染するのか」なんて質問には出合わなくなりました。でも「精神病っ
て、遺伝するんでしょう」という質問は、滅っていません。
 遺伝というのは、科学的な用語。本来、恐ろしいとか、危険とかいっ
た感情とは無関係な言語のはずです。しかし「遺伝するんでしょうか」
という質問は、たいてい科学的な答えを求めているのではありません。
科学的な答えなら、ごく簡単。「そんなこと、医学にわかるわけがない」
で終わりです。しかし、この解答では、だれも満足しません。

(こども、こころ学/石川憲彦さん 一九九五年 夏)

 将来、血縁関係者のこどもが、同じ病気にならないのだろうか。
 いったい、だれの責任でこんな病気になったのか、はっきりさせたい。
 まるで、危機管理について村山内閣に質問してるみたいですね。日本
的共同体のなんとも古くさい因果論の残骸! 近代個人主義の手垢にま
みれた個人責任論への変質! それらが生みだす偏見に乗せられ、医学
的に答えがないのを承知で、なお安心を買おうとする。そこには、家族
の政治・経済主義による、生命への差別が認められるのですが、ここで
はその指摘だけ。深人りは後にしましょう。

(こども、こころ学/石川憲彦さん 一九九五年 夏)

 「孫の病気は、女親からの劣性遺伝じやないでしょうか。私のほうは親
族一同問題ないのですが、嫁の家系は何やら似た病気の子がおったと聞
きますから」なんだかわかるようでまったくわからない話ですが、この
類の相談は、年配の人ばかりでなく、意外や意外、若い人からも受ける
ことが少なくありません。遺伝という言葉がかくも誤解される原因の一
つに、優性・劣性という言葉の問題がありそうです。


 たとえば、メンデルの実験を継続していくと、彼の推論どおり、第二
世代以後の花なら赤と白をかけあわせた次世代に、赤と白が一対一の比
で出現することがあります。劣性遺伝の表現形は当然ながら親から子へ
も伝わるのです。文頭の相談の場合、もし孫が遺伝病、それもメンデル
の法則に従うタイプの劣性遺伝であるなら女親だけではなく、男親の家
系にも、まったく同じ劣性の遺伝子が引き継がれていなければなりませ
ん。相談の背景には、古い家族制度の名残り、そして、女性差別の影が、
ちらりと見受けられます。

(こども、こころ学/石川憲彦さん 一九九五年 秋)

 精神的な環境といえば、まず、家庭環境と考えるのが世間の相場。
「こんな育児が、こんなおとなを育てる!」といった週刊誌風の噂話に
始まり、母原病・父原病・家原病……といった専門家の書く本にいたる
まで。宗数的な「三つ児の魂、百まで」から、科学的に見える母子関係
論まで、教育環境イコール親(母)子の愛情という図式が強調されます。
 もちろん、こんなの、眉つば。ただ、これらの説も、科学的根拠が示
されれば反論できるのですが、もともとそんなものは一切ありません。
信じるものは救われる。信じないものは非常識。母性愛は、日本教の中
心教義なのです。遺伝といえば血縁。環境といえば、母性愛。この無根
拠にどう反論するか。環境と遺伝の関係から書いてみようと思います。

(こども、こころ学/石川憲彦さん 一九九六年 冬) 

 たとえば、一部性双生児の研究。同じ家庭環境で育った場合と、別の
環境で育てられた場合を比較した場合、環境が変わっても、双方に変化
がない事柄と、環境によって大きく変わる事柄がある。前者は主として
遺伝的・生物学的素因、後者は環境的・心理的素因。後者においては、
親の影響が絶大だ、などといったような報告もあります。
 しかし、注意しなければならないのは、このことから「親は、先天的
な事柄については無力だが、生まれてからはたくさんできることがあ
る」と考えることです。「親の影響が大きい」ことと、「だから親にはで
きることがある」ということは、そう簡単にはつながらないのです。
 いや、まったくつながらないと考えたほうがよいでしょう。

(こども、こころ学/石川憲彦さん 一九九六年 夏)

 遺伝で切り捨てる一方、生きる権利を与えられた個人には、環境改善
への強迫的な自助努力が求められます。最善の個人的環境を維持するの
が個人の義務というわけです。
 この治療者にとって魅惑的な区分は、形を変えて不登校にも応用され
ます。それは脳の損傷か、親の育て方か、という区分です。不登校は主
としてこどもに体質的問題があると主張する人々は、米美の「崩壊性行
動障害」やドイツの「微細脳損傷」などをモデルに、小児期早期までに
決定されてしまった脳機能の問題が不登校の原因だとします。
 一方、心理的問題だと主張する人々は、たいてい「家庭環境」を問題
にします。この場合、家庭環境とは、両親の育て方と同義語です。家庭
環境だけが精神的環境ではないし、脳機能は遺伝そのものではないので
すが、「遺伝と環境」の図式は「脳と親」の図式にそっくり移行します。
 脳の病気なら、薬を使い、当人の自然性を変形する特殊な体制を整え
る必要がある。環境が悪い場合は、親がよい親に変わらねばならない。
当人の別枠処遇か、親個人の自助努力が、強く要求されるのです。

(こども、こころ学/石川憲彦さん 一九九七年 春)

 でも、一応、仮に差が本当だと仮定して話を進めます。
 マルタ人は、身長が低く、胴長。肌はやや褐色で、髪も瞳も黒い。し
かし、体型を別にすれば、後はどう考えても日本人とは似ていません。
遺伝的には、白人との混血を重ねつづけた人々です。それが、赤ちゃん
の反応は非常に日本的。私の感じる差は、もしそれが存在するなら、少
なくとも人種差ではありえません。胎児期の環境の差とでもいうしかな
いでしょう。
 胎児期の環境といえば、たしかに母親です。しかし、その母親とは、
母性愛とは何の関係もない、「身体で反応する母親」です。「胎児期の環
境」「身体で反応する母親」なんて、われながらちょっぴりうさんくさ
い表現だと思うので、ひと言注意。「胎児期の環境」と「胎教」とはま
ったく別のものですから混回しないでください。

(こども、こころ学/石川憲彦さん 一九九六年 冬) 


そこで、当然、胎児の育つ環境をよくしようという議論が登場します。
 妊婦には、原則として薬剤を投与しない。放射線をかけない。禁酒禁
煙。その効果のほどは別にして、これらは、胎児を病気から守るため、
胎児にも母体にも良好な物質的環境状態を維持しようとするものです。
なかには、風疹の予防接種のように、胎児や母体の環境より、障害児を
生まないためという差別的なねらいが、先行する場合もないわけでもあ
りません。
 それでも、環境といえば、いわゆる「胎教」のような倫理的道徳的に
「よい子を産む」おまじないではなく、あくまで物質的な、あるいは生
物学的な環境を意味する。母親は妊娠中の生物として考えられる。これ
が、前項で書いた「身体で反応する母親」です。

(こども、こころ学/石川憲彦さん 一九九六年 春) 

       又聞きなので、正確ではありませんが、次のようなこと
を考える人がいるそうです。
 妊婦は、食事の後、できるかぎりゆったりといい気分でいること。そ
うすれば、食後の血糖値が高いときに、赤ちゃんも満足感(副交感神経
優位)を味わうことができる。この自律神経のリズムが確立すると、情
動の安定した人間になれるだろう……。
 ありえそうな話です。仮に正しいとしてみましょう。食後ゆったりと
いうこと自体、悪いことではありません。ただ、一見簡単そうに見えて、
なかなか実現は難しい。
 家でのんびりしていても、急な電話がかかるかもしれない。ゆったり
散歩していたら、急に車のクラクションを鳴らされてドキッとするかも
しれない。もちろん仕事などしていたら、のんびりどころじゃない。で
は、人里離れたところで、ひっそり静かに生活したらどうか。静けさへ
のフラストレーションがたまる人。静かさに慣れるとほんの小さな音に
もドキッとするようになる人。いろいろあって、これもだめです。
 生物学的な知識を、生物学的な反応に用いることはできても、それを
日常の精神活動に用いることは、かなりの無理をきたすのです。

(こども、こころ学/石川憲彦さん 一九九六年 春) 

 たとえば、「母も子ももっともくつろいで自然な愛情を実感できる授
乳」の効能という、母子関係の神話について考えてみましょう。
 夫婦が不仲で、赤ちゃんが疎ましい。すると、母乳の出も悪いし、楽
しい授乳もつらくなる。そんな親子関係が、外傷体験となる……といっ
た説明は、解釈の仕方はちがっても、たいていの深層心理学者が、認め
るところです。性的にも宗教文化的にも、夫婦の不仲は、悪として公認
されます。
 ところで、私たちは、突然の騒音、電磁波の乱れ、放射線の変動等々、
人間の精神を一挙にいらだたせ、不安に陥れるかもしれないと推測され
る、周囲の環境の変化に、常に取り囲まれています。こういった要因が、
哺乳のたびに、継続的にあるいは断続的に起こりつづける可能性が非常
に高い環境に置かれた人々は現代ではとても多いのです。
 その場合、夫婦の関係とくらべ、はたしてどちらが親、赤ちゃん、そ
して、両者の関係にとって、強い外傷体験を形成するのでしょうか。
 この点は、まったく、何もわかつていません。いや、そんなことが調
査されたこともないでしょう。しかし、私は、少なくとも理論的には答
えは明確だと考えています。哺乳をめぐる神話がもし成立するなら、外
部環境が変勤しつつ与えつづける見えない影響のほうが、夫婦の不仲と
いった見える影響にくらべてずっと大きい、と。
                      
(こども、こころ学/石川憲彦さん 一九九六年 秋) 

 無意識とは、この一〇〇年ばかり流行した考え方ですが、いろんな議
論があり定説はありません。ただ一つ共通しているのは、無意識は、も
っぱら人間関係の本質的なありようによってもたらされると考えられて
いる点です。フロイトの好きな人は親子の愛情の関係のありよう(性)
に、ユングの好きな人は文化機構としての人間関係(宗教性)に、この
本質を求めたがるようです。
 たしかに、性は生物としての人間関係の基本を形成しますし、宗教性
は精神的な人間関係の基本を表現します。しかし、はたしてこういった
人間関係の本質的なありようが、無意識を形成しているのかどうか、か
なり眉つばなところがあります。
                      
(こども、こころ学/石川憲彦さん 一九九六年 秋)