読書メモ 治療という幻想 第五章 言語―――教育[せんのう]的治療―――  


「泣くことも笑うこともなく、いつも無表情で指あそびをしているA子ちゃん」が「アハハと笑ってくれるようになった」時、「アハハと笑ってくれた」A子ちゃんが、ずっと以前から教師に向かって語りかけ、笑いかけ、泣きながら訴え続けてきた内容を、その時点では「泣くことも笑うこともない」などとして切り捨ててきた自分の側の気づかなさに、この教師はまだ気づかない。赤ちゃん扱いし始めると、すでに大人と子どもとの関係が一方向性になってしまうだけではなく、ことばのもつ関係の逆転を生み出すエネルギーさえなくなってしまうのであろうか。
 





 筆者は二十歳の時、一年間アメリカで学生として過ごしたことがある。日本語をいっさい使用できない寮生活が三ヵ月ほど過ぎた頃、しばらくの間〝ことば恐怖症〟になってしまった。英語が一言でも耳に入ると吐き気がする。目にアルファベットが入ってくると、めまいと頭痛がする。ルームメイトが心配してくれるのだが、そのヤンキー独得の色白で鼻高の脂ぎったバタ臭い顔がせまってくると、いたたまれなくなる。部屋から逃げ出し、一日野原に寝ころんで、ルームメイトが寝静まるのを待って部屋に帰る。頭ではアメリカ人への偏見を捨てようと思うのだが、胸や胃が「ヤンキー」を拒絶してしまう。
 そんな日々が一週間も続いたある夜、夢でうなされて目が覚めた。ぼんやりした頭で「なんだ、夢だったのか」と考えた瞬間、そういえば夢を英語でみていたし、「なんだ夢だったのか」と考えたのも英語で考えているし、何よりそういったすべてを英語で考えている自分に気づいた。そして、次の日から日本語で考え、英語でしゃべっていた。あるいは英語を読み聞さして日本語に訳して考えていた生活が終わり、英語だけで聞き、考え、しゃべり、自己完結してしまうように思える日々が始まった。“ことば恐怖症”は、その夢の後まったく消失してしまっていたし、ルームメイトは気のいいアメリカ人として親しめる人間に突然変身していた。
 その事件を境に、筆者は自分のなかにいくつかの人格があると感じるようになった。たとえば、日本語で考える自分と英語で考える自分とは、別の人格のように思えるところがある。この最大の原因は、単純に結諭づけようとすれば語彙の差、文章力の差という語学力の問題に帰結するのかもしれない。つまり、英語だけで考えて生活していると、単語数も限られているから、考え方やものの感じ方も大ざっぱになるのだといった風に。筆者も初めはそのように納得していたのだが、どうもそればかりではないような気がする。
 この体験を、同時通訳のベテランに語したところ、彼女は「同時通訳は、心の中の二つの世界の対話です。決して右から左へ物を整理し、移し換えるということばの置き換えだけではない緊張と分裂を自己の中に生み出す作業です」と語ってくれた。
 英語と日本語は、脳内でもことばとしてしまい込まれる場所が異なるのだという説がある。例えば、読字困難症、読字学習障害が欧米に多く、日本に少ないのは、漢字は表形文字であり図形として脳に入るのに、アルファベットは表音文字で記号として脳に入るからだという。今流行の右脳左脳風にいうなら、鈴虫の鳴く音を音楽としてとらえるか雑音としてとらえるかといった文化差と、脳の部位の対応の問題と対比して考えればよいのかもしれない。二つの人格の存在は、こう考えると説明がつく。また、一方では、文法構造の差が諭理構造を変え、文化や発想までを変えるのだという説もある。
 しかし、関西で生まれ育った筆者のなかでは、英語と日本語だけではなく、関西弁と標準語すらが根深い所で別の人格を形成しているように思われる。ことばは、それ自体が思考・体験・思想・文化・感情・意志・情緒をひきずって歩いているとさえ感じられる。


したがって、ことばを治療するということは、人間の可能性、すなわち全体性をも操作するということを意味する。
 これまで三本の教研レポートを紹介した。そこには、ことばの多様な側面のいくつかが含まれていた。話しことば、書きことば、コミュニケーションの手だて、教育のことば、治療のことば、情緒とことば、文化とことば等々。そして、このことばをめぐる多様で多訓な電訓構造を示す関係が教育から治療へと変化させられるなかで、しだいに窮屈で操作的になってゆく背景として、筆者は、ことばの用具化の深まり(宗教的イデオロギーの台頭)を指摘した。発達保障論もまた、こういった用具化を正当化させることを指摘しておこうと思う。
 




 このレポートでは、少なくとも話しことばはコミュニケーションが成立すればよいという形で理解されている。別のところでは、発音の異常というのは「聞き手が注意すると、話の内容が理解できる」程度のものであると書かれている。
 とすれば、そこでは次の二つの異なった解釈が成立し得る。第一に、ことばは、聞き手、語り手の相互関係によって相形成されてゆくものという解釈。第二に、コミュニケーションが成立するためには最低限の限度はあり、この生徒の場合には、限度以上であるといった形でのことばの解釈。
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したがって、第一の解釈に立つのでなければ、話しことばを教育の問題とすることはとても危険である。第二の立揚は話しことばに限界を設定することによって、コミュニケーションを成立させ得る人間の思想や感情をも制限し、限定しかねないからである。

 「視力のみを考えると、かならずしも盲学校でなくとも指導は可能である」というレポーターの盲学校の専門家としての判断は、視力からみて盲学校でなければ指導できない子どもを仮定しているのではないだろうか。とすれば、この生徒には「療育のみを考える」専門家や、「発音のみを考える」専門家が各々判断を下してゆく必要性が生じてくる。とすればそこではすでに、「聞き手が注意すればわかる」か否かといった形での、関係の自由をもった素人同士のコミュニケーションは消失してしまうのではなかろうか。例えば、注意して聞いたら私にはわかったという人と、注意して関いても私にはわからなかったという人がいて、はじめて人と人とはトータルにコミュニケートできる。そこに、専門家として「この発音ではわからない」と診断する人開か登場した瞬間から、コミュニケーションは変質または消失するであろう。


 そこで、このレポーターは、話しことばの問題は治療の問題とし、書きことばは教育の問題としてゆく従来の教育観の枠を守ったのである。それは安易に話しことばの領域に踏み込む多くの教師たちに比し、ずっと謙虚な方向であったと思う。この安易な踏み込みが、教育のことばと治療のことばをあいまいにし、ひいては関係のことばをイデオロギーのことばとしてしまうことは前項でみたとおりである。
 




 しかし、その謙虚さが、どこかで「いじめられたが故に盲学校への転校をせまった」地域の学校の教育者たちの、″弱味があるが故にいじめられてしまう子ども″たちを自分たちの教育の対象としてではなく、治療の対象とみなす見方と一致してしまう。
 



 素朴さの正体

 しかし、大人のことばでしゃべれない、またはしゃべらないことと、言語が獲得されていないこととは、当然のこととして、あらゆる文脈において同義ではない。ことばのない子がことばを得る。すなわちゼロから何かが産み出されることと、ことばが当人のなかで別の表現方法に変化してゆくことは、まったく異なったことがらである。

 第二の点は、この論文にそって考える時にも、「しやべれたらいいのに」というゆがめられた主観が、あたかも素朴な思いであるかのごとく肯定されてしまう根拠として、言語獲得以前ということばの役割が存在するからである。そして、この素朴な思いのなしくずし的な肯定は、それ以降に紹介される独善的仮説をも承認してゆくこととなる。

一つ問うてみたい。「あなたは、本当に素朴に、どのような子であれ子ども達を目の前にした時、“しやべれたらいいのに”などと思うのですか?」と。
 もちろん筆者は、人が人に向かって「しやべれたらいいのに!」と考える状況の存在を否定しようとは思わない。親がわが子に対してそのような想いを抱く場面は充分に了解できるし、教師が生徒に、友人が友人に、そして子が大人に、そんな思いを抱くことも多々あるのであろう。筆者にも、そういった思いが、ごく素朴に湧き起こることがあったし、あるし、また将来もあるであろうと思う。
 しかし、それらは生活のなかで、場面や状況によって、他の多くの素朴な思いと同様に時として切迫して出現し、時としてどちらでもよくなることがらとして消失していくのではないだろうか。少なくとも、ある予断か偏見か、さもなくばすでに先験的に縛られた主観の存在を抜きにして、子どもたちを目の前にした時に浮かぶ素朴な思いの主流は、「しやべれたらいいのに」ではないように思う。

 したがって、筆者には、なぜその「思い」こそが幄二大切になってゆくのかがわからない。いや、正直にいうと内心はわかっているところがある。それは筆者が医者であるが故に、先験的に縛られた主観として了解しているところである。医者−患者という関係を“患者の苦しみを医学的に直してあげるのが医者である”という教科書的な公式にのってのみ了解していた頃、筆者の目の前に登場する子どもたちは、何よりもまず素朴に「直されるべき対象」であった。
 しかし、生活のなかでつき合う子ども達との関係からいうと、生活のなかで必要なできごとのなかに医学的知恵が役立つことがあるのかもしれないといった場面でしか、直す発想は見場してこない。つまり先験的に医者性に縛られた身構えを示す時はじめて、素朴な思いなるものが生じる。
 特殊教育に関与する人間の職業的倫理観もまた、この医者性の場合と同様に、子どもを目の前にしての素朴な思いなるものを規定するのに充分な力をもっているのであろう。
 逆にいうと、相手との生活における関係性の欠落こそが、この素朴な思いを生む前提なのではないだろうか。もちろん、親とて、生活における関係性から「しやべれたら」と、状況によっては素朴に感じることはあるのだが、この感じは常に他の多様な思いと同様、浮かんでは消えてゆくたぐいのものである。
 しかし、職業的倫理詰が働く時は、相手にも継続的に同じ思いをもってもらう必要が生じる。
 そこで、前述した無か有かというほどのつきつけが必要となったのである
 


 このことが承認されるなら、同時にそれでもなお人間の習性として、人のことばを操作しようとしたり、しゃべってほしいと願ったりする気持ちを周囲がもつゆえんも了解できる。ただ、周回のこの気持ちは、人を赤ちゃんに擬して形容することで、時として赤ちゃん扱いによるかわいがりと馬鹿にする関係の混在を含んでいるとしても、赤ちゃんでない存在を現実に赤ちゃんとみなして取り扱う集団的なトリックを容認するものではない。
 しかるに、本レポートでは、「母親が赤ちゃんに働きかけている内容をさらに教育として取り出し」てゆくことが公然と行なわれているのである。一週間の流れなるものを作り、あそび、ゆさぶりをカリキュラム化しているこの学校では、子どもたちは計画的に赤ちゃんとして 取り扱わ れるだけの存在とされているといっても過言ではあるまい。
 



 この場合、母性というのは、女性の側からの要求として存在するのではない。期待される子ども像に向けて期待される母性像として登場してくる。
 したがって、まったく正反対の方向を示すかにみえる二つのレポートが、実際に異なったイデオロギーを形成しているのか、それとも一つのイデオロギーの両輪であるのかは、その両者が抽出する母性の内容による。
 C県の″抱っこ″も、S県の″あやし、ゆさぶり″も、共に母と子の関係の非常にいびつな一面性を強調したものである。母、赤子を抱く母、赤子をあやす母。母のイメージが、こういった貧しい形においてしか想起されない。この母のイメージは、明治以後徐々に形成され、第二次大戦においてピークに達した母のイメージである。イエス・キリストを抱くマリアの日本版イメージが、天皇の子を抱かんと岩壁の母となって帰国を待ちわびる姿ではないのか。
 高頭脳産業は、過去の文化に縛られることのない、世界的に共通した産業であると考えられるが故に、この無国籍的な文化を縛りつける個人の文化的同一性の基礎が母子関係に強く求められる。スキンシップのイデオロギーが、比較的無批判に右から左までをまき込んで受け入れられた背景には、こういった日本社会の不安定さが存在していたのだと思う。

 「左の」側は、このイメージに対し何ら対応できないまま、いつの開にかこのイメージが抱くイデオロギーにのみ込まれてきた。そして、このイデオロギーを、一番弱いところにおかれ、このイデオロギーによってもっとも被害をこうむるであろう弱い子ども達とその親に、まっ先に押しつけたのである。将来、このイデオロギーが排除してゆく側が、母子関係を基軸に、ことばを通してこのイデオロギーの了解者となっていてくれれば、混乱は少ない。教育における言語治療は、このイデオロギーを右と左から結びつけ、支える役割を完了した。




治療という幻想/石川憲彦 1983〜1988