読書メモ:治療という幻想 第六章 直りへの希望


 しかし、自然神を失った人類に、身体性は保証されるのであろうかと心配する人、すなわちまだ居直れないでいる人は多い。身体性への現代人の不信はとても大きい。
 だが、よく考えてみよう。人類が誕生して数百万年。自然神が登場する以前の文化は数万年続いたといわれる。自然神は数千年にわたって地球を支配した。工業神は数百年の支配をもうすぐ終えようとしている。


 しかもあるがままの身体性は、自然神によってさえ否定されてきたことは想起されるべきである。本書では、この側面を特に強くは紹介しなかったが、各章の端々にこの点については記したつもりである。自然神も、直そうとしてきたのである。
 直る希望は、こういったすべての神々の死の先に見えてくる。



 今年(一九八四年)、先生方の全国教育研究集会の障害児分科会というのに、郡内某養護学校から出された論文を見て、私はほんとうにもうこれはたいへんな時代に入ったと思いました。それは、「子供の発達課題は笑顔を得ることである」というのです。「笑顔を得させるための教育をして、一年たったらこの子はこんなに笑った」と素晴らしい教育成果として報告すると、先生方からドッと拍手がわくのです。
 




遊牧民は、今をここに生きてきた。農耕民は、ここに今を生きてきた。主体的な現在を、関係的なここに生きる、そのありようは異なっても、生物を育て、生物と育ち合う自然神の支配下では、人々は豊かな時間と帰るべき根をしっかりと与えられていた。そういったなかで、ことばも豊かに成熟していった。
 このことばと、工業神のことばとの違いは、すでに五章にその一部分を紹介した。スキンシップ、母子関係といった、いかにも暖かそうにみえる関係は、無機的な工業神の社会では一見とても人間的に思われる。しかし、自然神のことばが支配した時代には、むしろこういった関係はとてもグロテスクなものであったと思われる。
 



 現在あるがままの当人を、そのままでは人間として認められない。ここに、工業神の現在に対する一つの時間概念を見い出すことができる。農業の神は、雑草と作物は区別したが、作物はどのようなものであれ大切にしようとした。異端排除や差別はあっても、そこには雑草か益草かという線引きがあった。しかし、工業の神は、完成品としての条件をすべて備えていない限り製品とは認めない。現在あるがままの姿を認められるのは、製作者が完成品とみなした時だけである。これが徹底すれば、製造の過程で将来完成品となることが期待されないものは、不良品としてスクラップに回してしまう。第三章で紹介した出生前に治療の名によって抹殺される生命とは、こういった生命であった。
 生まれてこない方がいい生命と考えるのは、生まれゆく生命の当事者ではない。常に、他者である。つまり、天の時回を崩壊させた人間遠は、未来に予想される、他者が否定する価値観によって生命の当事者を抹殺できる、というのが工業神の発想である。
 もちろん、過去の自然神も、間引きや子殺し、うば捨て山を容認した。時として不良な作物を他の優良な作物の保護という名目で抜き去ることもあった。しかし、それは、あくまでもせっぱつまった生存置同士の価値観の葛藤のなかで進行した。工業神ほど確固とした不良品スクラップの思想は、過去には存在していなかった。 




 そのために、二人の運動のを麻痺を抱えた障害者の例を対比的に示してみよう。一人は、金井康治君である。詳細は近刊の彼の転校闘争史にゆずるとして、もう一人のKさんとの対比上、要点のみを記すこととする。
 生後まもなく両親に障害を気づかれ、幼児期をトレーニングに明けくれ、重度のCPとして当然のごとく養護学校に入学した金井康治君には、近所の友人が一人もいなかった。しかし、当人の友人が欲しいという希望と、弟の別な学校へ行く不自然さの訴えのため、両説は近くの普通学校への転校を求める。が、この願いは封ぜられ、以後数年間にわたり校門の前に通い続け、全国的な支援運動によって、ようやく中学入学とともに転校を勝ち取ることになる。この間、転校が認められない理由は、彼が運動に障害をもち、健常な子どもと通常の教育的関係を結べないというものであった。

 一方、その頃一人の少女(Kさん)が養護学校へ行くように介じられたが、ごく筒単に普通の学校へ戻れた例があった。
 Kさんは、十歳の時進行する四肢の麻痺、言語の障害で来院した。四年生まではまったく元気に通学していたのだが、五年生の秋に寝たきりになり、冬には飲み込むことも、息をすることも困難になっていた。
 動けなくなったショック、食べたり飲んだりすることのできないいら立ち、麻痺と不随意運動に絶望し、一時は「治療なんていやだ。殺してくれ」と、まわらぬ舌で、声にならぬ声で母に訴えた。父母の愛情、兄弟の力ぞえ、そして親友達の「またいっしょに遊びたい」という励ましが支えになって、春から治療は効を奏し始めた。
 かろうじて動け、しやべれるようになった頃、復学への期待と迷いが交錯した。迷いは、自分が学校についていけるか否かより、前とは変わってしまった自分を皆の前にさらすことにあった。この意識が差別的であるとせめることはできなかった。しかし、差別の克服より前に、皆と一緒のところへ戻りたいという期待が、迷いをおさえた。
 しかし、復学を申し入れた学校からの返事は、「歩けない子には、そういった子ども向きの学校へ通ったほうが幸せだ」という拒否であった。この拒否に「死んでやる」と叫んだことばは、かろうじて声として聞きとれるようになっていた。
 この話を聞きつけた友人やその家族は、大いに怒って校長室へ抗議にでかけた。教員のなかにも、あまりにむごいという声が上がって、Kさんはすんなりと復学できたのである。
 この二人を、リハビリテーションの必要性という点のみにしぼって比較するなら、Kさんは康治君よりずっと必要性が高かった。にもかかわらず、普通の学校にすぐに戻れだのはKさんであった。なぜか? Kさんには共に闘ってくれる近所の人々やクラスの子ども途がいた。康治君にはまったくいなかった。なぜこの差ができたか。Kさんはずっと普通の学校で、関係的ここを豊かに保有していたが、康治君は長い治療生活によって、関係的ここを消失していた。
 


 親はいろいろやってみたけれども、Q君は変わったように思えない。結局、専門家、偉い先生といわれる人、だれに聞いてみても、Q君は重度で、ただともかく根気強くトレーニングするしかないといわれるだけである。親から見ても、この子とはなんの意思の疎通もないように思える。ただ面白いのは、幼椎園にときどき遊びに行ってると、子供たちは、この親もわからない子に、結構勝手なことをわかったように語りかける。「何をしたいのね」とか、「うわあ、こんなこといってるよ」とか、「Qちゃんの帽子はかわいいね」とか、なんでもかんでも子供は通じ合ったように思い込んでいる。幼稚園の子は、この何にもわかっていないはずの子を、なんでもかんでも一緒の遊びに入れてしまう。あれは非常に面白い。やっぱりいろいろな人間の中にいること自体が希望に見えてくる。その子とその子をとりまく子供がいたときに、Q君が変わるかどうかはわからないけれども、Q君とその子たちの関係の中では、結構いろいろな関係ができるということがわかる。
 




治療という幻想/石川憲彦 1983〜1988