治療という幻想 第一章 直すこと直ること

 一つ補足しておくと、この道徳律というのは、決して単に体外受持の倫理として先に紹介したような、一見哲学的にみえる特別な談論にのみ顔を出しているのではない。ごく日常的な、ありふれた光景の中に、とてもこっけいで、あいまいな形の姿をさらけ出しているものである。
  例えば、かなり多くの開業医の診察室に置かれている、金だらいに満たされた消毒液を、少し注意して眺めてみよう。医師は一人を診終えると、チャポンと形式的に消毒液に手をつけ、いかにもすがすかしげに手をふく。この手で診察されると、プーンと消毒液の臭いがして、清潔感がただよう。いかにも、病気が直りそうな気がしてくる。
  しかし、いったい、消毒液に手をつけることによって、医師は何をしようとしているのだろうか。もし、消毒をしていると考えるなら、それは大間違いである。金だらいや洗面器の中の消毒液にいきなり手をつけてみたところで、消毒効果はほとんどない。もし消毒という面だけを考えるなら、完全な消毒は望めないまでも、水道水を流しながら手をこすり合わせる方がよほどましである。では医師は、この消毒液に手を入れることで、"はい、一人終わりです″という合図を送っているだけであろうか。それとも、ちょっと清潔そうにみえるおまじないをかけているだけであろうか。
  実際は、患者の多くは、これで清潔だと信じ込んでいるし、少なからぬ医師自体が清潔になった気がしている。
  このこっけいさは、手を水で流すという昔からの清めの儀式より、消毒液という西洋医学のもたらした殺菌力を秘めた液体の方が消毒力が強そうだという、液体への信仰によって成立してくる。消毒液をどう使えばよいのかを調べなくても、消毒液自体に力を感じてしまうのは、正に宗教性である。
  仏教が伝えた浄・不浄の概念と、西洋医学の清潔・不潔の概念は、清潔感という道徳的発想に左右されて正体を失う。ガンジス川で用を足すことは浄ではあるが不潔である。この概念の差が不明確に混同されるが故に、御不浄とお手洗いは共に水洗トイレに一元化される。



 
 特殊な状況を一般化すること(リフト付きバス)と、一般状況を特殊化すること(歯)の違いは歴然としている。しかし、一般化するべきことを、地域に生きることを願う者達さえつい特殊化(専門医療)してしまうほどに、医療は「直す」側によって強く特殊化されすぎている。
 特殊性と一般性の課題は、今日の社会が抱える大問題である。分析的な方法によって専門性が細分化されるにつれ、一人の人間は、全体のながのごく一部分にのみ狭く深く関係するようになる。この一部分から、いつでも全休を取り戻せるようにしておかない限り、特殊な部分をすべてよせ集めても全体の姿は再構成されない。
 この青年の話は、次のように要約できる筋を含んでいると思う。「直す側」―部分を操作する側―特殊化の方向が、「直される側」―全体として生きる側―一般化の方向を規定している。しがも、「直す」側が理解していることを「直される側」はとんちんかんにしか受け取っていない。したがって、部分が全体を抱え込み、特殊化の方向はやみくもに進む。青年が地域の一般医療の充実をさけべば全人民の課題になるものと、地域に専門医療の充実をとさけべば障害者の身勝手と分析される。障害者自らが自分を特殊化してしまう。


しかし、必要なのは専門医療なのだろうか。筋ジストロフィー症―特殊な病気=筋ジストロフィー症のちっ息―特殊な医療と短絡的に考えるところに大きな落し穴かおる。ちっ息という状態は、生きとし生ける者が、生命の最大の危機として常に背負っていることがらである。とりわけ、老人や乳幼児のちっ息のし方は、箭ジストロフィー症のちっ息のし方とまったく同一といってもよいほどである。
 この青年が、とりあえず緊急に必要としているものは、専門医療ではなく、一般医療中の一般医療そのものなのである。誤解を恐れずにいうなら、通常筋ジストロフィー症の専門医がちっ息の状態に対処しうる能力は、残念ながらごくありきたりの外科医よりはるかに劣っている。ちっ息という点でいうなら、麻酔科医の右に出る者はいない。
 この青年の想い浮がべる専門医療と、専門家の作り出している専門医療にはずれがある。そして、青年の想いと、一般的な人びとのもつ想いとはそう大差がないと思われる。このずれは、医療が、「直される」者の側からは遠く、「直す」者の側に近いところに存在しているところから生じる。



 医者としての私が知っている筋ジストロフィー症の専門医とは、筋肉や神経を身体から取り出して、顕微鏡下でそれを研究する医師である。もう少し「直される」側に近いところでは、その身体を効率的に運動させることで、筋肉や関節の状態を悪化から少しでも守ろうとすることに詳しい医師である。「直す」論理は、「直される」側が自立の最大の壁と感じているところにはあまりつき合おうとしないものである。
 そのような専門医療であっても、施設のほうが安全であるとするならば、それは、医師―患者の居住空問が近接しているためである。したがって、老人や子どもが安心して救急的な処置を身近で受けられるような地域においては、障害者の安全性は施設と大差がない。障害者の専門医療ではなく、ごく身近な一般医療が、地域に生きる条件なのだ。
 このような質の問題は、多様に存在する。リフト付きバスは、車椅子障害者に特殊に必要とされるのではなく、妊婦、子どもを抱いた婦人、酔っぱらい(?)、老人などにとっても安全である。歩道の段差解消も同様であり、自転車にのる人にもメリットがある。
 革新都政下で、障害児専門の医療センターを作る計画が完成真近であったと聞いた。これには、障害児は虫歯になってもみてくれる病院が少ないなどといった、医療拒否への対策が含まれていたという。切実な治療要求に対して専門病院を作ることは、障害児の歯を特殊化する。どこでもすぐに受け入れられないとしても、専門病院に集められる予定であった歯料医を、せめて都立病院内で巡回させられれば、障害児の歯は特殊化されることなく一般の人にもメリットをもたらしたであろう。

 障害は病気ではなく個性だという障害者の白身の障害に対する自己規定は、その意味で非常に
重大なことであった。しかし、はたしてそれで充分なのだろうか。

「『障害』は病気ではない。だから直す対象として『障害』をとらえることが誤まっている」と
いう障害者からの指摘は正しいと思う。しかし、病気と「障害」との差異を強調することだけで




両者が信頼をおいているのは、人間の啓蒙的な理性であるといえよう。しかし、両者とも、こ
の見解が今日の医学界の中でなしくずしにされてゆく様子をどのようにみておられるだろうか。
 島本氏のいう実証的態度を重視しようとすれば、今ロー人の人間がたずさわれる医学の分野は、ごく狭小なものとなる。氏の時代とは異なり、今日の知の情勢は、個人の実証的態度がカバーできる容有量をはるかにこえているからである。吉判氏のいう医師の判断力も、検査データですらすでに個人の手にあまるに至っている。すでに述べたように、そのデータを技術としてどう判別するかは、医師の個人の判断でなく、第三者の手にゆだねるところにまで落ち込んでいる。

 相対的な善悪の根拠の消失は、相対的なバランス感覚にとって代わられる。生理的には血圧は高すぎも低すぎもしない程度に調節されている。このバランスを生理的に維持するためには、多すぎも少なすぎもしない塩分やコレステロールが必要である。もちろん、このバランスは、体質によって変動するが故に、一人ひとりに応じて考えられるべきものである。そして、病気とはこういったバランスの徘特に不利な状態が準備されたり、現実に登場してくることである。
 こう考えると、

 今日、病気という概念が広がってゆくということは、自己の固有の感覚に生命をゆだねることを放棄し、他者が設定する非可視的な彼岸のバランスに身をゆだねる機会が増加しているということを意味する。しかし、このバランスが非可視的なのは、過去の医学のように彼岸が神や自然の法則に規定されているからではない。かといって、十九世知的な理性的人道主義が語る理想のみえにくさによるのでもない。機械のはじき出す可視的なデータを知的に統合し体系化することが、個人の可視性をこえ始めたばかりでなく、その統合の判断を道徳律の判断にゆだねようという落し穴の底がそそれ以上に非可視なのである。そして、この非可視性故に、自己の日常感覚を放棄せしめた瞬間から、人はイデオロギーの操作を受けるようになってゆく。







 高血圧はその代表であろう。これは、すでにみてきたアル中、喘息、感冒、おできのように、
A群的発想の延長として病気とみなされるようになったのではない。心前夜塞や、脳卒中の原因として高血圧が注目をあび、血圧をコントロールするために薬剤を使用することがそれらの予防に有効だという認識が深まるにおよんで、病気とみなされるようになった。しかし、高血圧はもちろん、心筋夜塞や、脳卒中においても、敵である異物を同定することはそう容易ではない。
 血圧は、塩分の取りすぎで上昇する。しかし、塩分は必要な食物でもある。コレステロールの血管壁への粘着は動脈硬化を起こす。しかし、適量のコレステロールは動脈硬化を予防する。敵と考えるものが、味方でもあるというのは、困ったことである。
 一方、血圧は、遺伝によって定められる体質によっても規定される。細菌のように体外から敵がやってくるのではなく、最大の敵は自分自身を存立させてゆく体質として内部にひそんでいる。
 これは、十九世紀の近代医学が、あまり注意を払わなかった課題である。医学だけではなく、十九世紀の科学とヒューマニズムは″善は自己にあり、内部は味方であり、非自己は悪であり、外部に敵がいる″という比較的楽観的で単純な割りきりによって人間機械論を成立せしめたように思われる。しかし、自己と非自己、敵と味方、外と内の区別が不明確になってくると、善と悪はその判断基準を失う。




 事故は同時に病気たり得る。これは概念の混乱をきたすとしても、日常生活上は大きな意味を
もたらさない場合が多いのかもしれない(もちろん、原発事故による死が事故死か病死かといったような形で、日常生活を操作する可能性を忘れるわけにはゆかないのだが)。
 一方、日常ごくありきたりの営為と考えてきた老化や出産に関してはどうであろうか。これまで私達は、病的な老化や病的な出産というものが、日常生活の中にたまにはあるといった風に、仮定的な区分によってこれらの問題と病気との関係を分けて考えてきた。例えば、老人のポケにも、病的なボケ(例えばアルツハイマー病)と、高齢になるにつれごく自然にもの忘れが増えてゆくものとがあるといった具合である。しかし、老いること自体を、細胞の機能低下や細胞の死滅であると考え、こういった細胞レベルでの現象に何らかの敵性を仮定するなら、老いそのものが病気とも考え得る。
 妊娠について 赤ちゃんを妊婦に対する敵と仮定し、出産を敵である異物を体内から追い出す作業と仮定すれば、立派に病気としての要件が整ってくる。体外受精や、人工胎盤技術がすすめば、妊婦に特有とされてきた妊娠の兆候は、病気の症状ということばに置き換えられるかもしれない。


 当然、不利益も様々に想定されよう。しかし、今日、こういった問題の合目的判断は、誰が認
定するのであろうか。医師でも患者でもない、医の倫理といった怪しげなものが、この決定権をめぐって登場してくる。例えば体外受精の可否をめぐって登場してきた倫理委員会なるものは、この代表である。人々は病理学に病気観をゆだね、病理学はその判断を″倫理香貝合″にゆだねる・一見整合的にみえるこの構造には、とても大きな落し穴があるのではないだろうか。前項の終わりに、なぜ病気観の混乱を招く必要があったのかと問うたが、答えはこの落し穴にかくされているように思われる。
 体外受精の可否に、〃夫婦に限る″といった決定を付加した倫理委員会が存在することは、この落し穴の象徴ではないだろうか。医学的処置が、限定を受けた一部分の人びとにしか許可されないということ自体、一般的に大きな問題であるが、その限定が,夫婦″という社会的制約によって形成されるというのはヽ倫理を修身や道徳のレベルに変形させ、特定の道徳律のために医学を利用する行為としかいいようがない。やや皮肉れば、これはまるで″十八歳末満お断り″の発想であり、ポルノ映画やポルノ写真と妊娠をほぼ同列に扱う行為である。出生という人間の尊厳に満ちた営為も地におちたものだと書けば、ポルノ映画の側から怒られるかもしれないが、少なくともパロディーとして楽しんでばかりはいられない。例えば、安楽死とか、脳死とかいった形で、老いることや病むことへの倫理が道徳として語られ始めると、倫理委員会なるものが操作し
ようとしている道徳律のこわさがみえてくるのではないだろうか。







 表1をみていただきたい。人が病院を訪れる理由のいくつかを示してみた。通常、左半分の五つ(結核・肺炎・胃癌・脳腫瘍・脳炎)は、今日の日本人の大人ならば九九%までが病気と考える理由となるものであろう。今これをA群と呼び、右半分の五つをB群と呼ぶことにしよう。B群(老い・出産・溺死・交通事故・予防接種)は、A群とは対照的に、圧倒的多数の人が病気とは考えないものである。病気の概念を問う問い方として、がなり病気と無関係なことがら(例えば銀行預金とか国会討論)との対比で病気を考えるのでは迂遠すぎる。病気ではないが病気と同様に病院で処理されることがらと病気を対比させることは、概念の中核にせまりやすいのではないかと思う。B群は、そういった意味で、病気ではないものである。
 この両群を比較してみれば、病気の概念というのは比較的鮮明に形成されてくるかに思われる。例えば、A群がすべて〝病気〟という概念であるのに対し、老い、出産には〝自然経過″、溺死、交通事故には〝事故〟、予防接種には〝病気の予防〟という概念を与えてみてはどうだろうか。もちろん、これは仮の概念であり、他の概念を当てはめてよいのだが、いがなる形の概念を与えようが、病気と非病気は明確に異なったものとして存在しているかに思われる。〝病気〟と〝自然経過〟には、病理と生理の差がある。〝病気〟と〝事故〟には、生物学的要因と社会的な要因との差がある。〝病気〟と〝予防〟は当然まったく逆の方向を向いた概念である。このように、一見区分は非常に明確である。
 通常、したがって医療というのは、こういった様々な異なった概念を周辺に合わせもつ、複雑な性格をもった、病気を中心に据えた体系として理解されるのであろう。病気と、病気以外の様々な生命現象を取り扱うのが医療だということである。
 しかし、今、こういったことがらを取り上げようとするねらいは、そういった通俗的概念を確認することにはない。病気とその周辺が医療によって操作されている現状と、病気という概念の西群医学の操作による変化が私達に与える問題を検討することが目的である。
 では、日常的に明確な区分を有する病気と非病気は、病理学的には区別可能であろうが。実はA群は、病理学的に非常に明確な特色をもっている。結核、肺炎、脳炎は感染症であり、他の二つは肺癌である。どちらも生理的には存在しない人間の細胞にとっての異物が、正常で生理的な細胞の活動を邪魔することによって病気を生み出すと考えられている。つまり、いずれもいわば体内に巣くう異物のはびこりが敵(病因)なのである(これに対しB群は、つい最近まで、こういった細胞レベルでの真物が直接の敵として人間に立ち向がってくる現象とは考えられてこなかった)。


 臨床的には、感染症は近代ヨーロッパ内科学の中心課題であり、腰痛は現代アメリカ外科学のメインテーマである・十九世紀の近代医学は、コッホやパスツールといった感染症の研究者によって確立され、戦後アメリカの機械技術によって花間いた。体内にひそむ敵をあらゆる文明の利器を駆使して発見し、敵を殺す技術の進歩である。今日、感染症は大部分薬によって敵を殺すことができるし、腫瘍はメスによって切り捨て得る可能性が増えてきた。細胞レベルでの異物の排除、すなわち〝毒を取り除くこと〟が近代医学のメインテーマであり、A群はその代表選手である(もちろんB群は、臨床的にもこの概念にそぐわない)。
 このように考えると、病気という概念は、過去人間の不幸とされた様々なあいまいな概念のうち、近代医学の勝利によって徐々に明確に方向づけされてきたものとして、今日医学的に比較的はっきりした共通認識を形成し得ているかのように思われる。例えば、島本多喜雄氏は次のように述べている。

「病を治そうという努力は、初めてパピルスにしるされた医書が歴史に残されたエジプトの、そのまだ以前の太古よりおこなわれてきた。さし迫った人の悩みを、何とかして除きたいという場面では、法則はわからなくとも、わずかでも有利と考えられれば、わけのわからないことでも試みざるをえない。実証的な裏付けなどするいとまがなくて、祖先伝来の伝承に頼るという非科学的な処置が、じつに第二次大戦までは世界中で数多くおこなわれ、それが古い医療の一つの姿でもあった。したがってそれまでの医療には誤りが多く、誤った医療のため逆に人命をおとし、多くの人々に損害を与えた面と、幸い利益を与えた面とがあり、今日比較してみる
と、じつは損害を与えていたばあいの方がはるかに大きかったと説く学者が多い。第二次大戦以後ようやく医学は、その基礎をなす物理学・化学・数学・生物学などの画期的な進歩に助けられ、飛躍的な進歩をみせ、それにより人類の平均寿命もじつに近近二十年の間に二倍にも延長するに至った。」

 この考え方からすれば、人間のさしせまった悩みのうち、医学的・実証的な方法によって取り除かれるようになったことがらが病気であり、将来それを期待できるような悩みも同様に病気と考えられるということになる。いささか日常の病気観と異なっているようにみえるが、おおむねこれが医者の病気観の主流といってもよかろう。今日、日本人の多くが病気の判断を医者に仰ぐ時代であれば、この医師の側の病気鋭こそ、日本人の平均的病気鋭を形成してゆく土台となるのである。
 例えば、表2(これらをC群と呼ぶ)をみていただきたい。これらは病気であろうか。それとも、他の概念で考えた方がよいものであろうか。


結論からいえば、医者の多くは、今日これらすべてを病気と考えている。医者以外の大人についていえばヽ年齢ヽ性別ヽ学歴ヽ疾患体験などによって、今のところ大きく異なった対応を示す。しかし、昔と今を比較してみれば明確になってくるように、時代が進むにつれ、医者と同じようにこれらすべてを病気とみなす人は増えてきている。
 例えばアルコール中毒を病気と考える人は、戦後すぐには少数派であったが、今日は多数派を形成している。それもアルコールによって脳細胞や肝細胞が破壊されてゆくが故に、アル中を病気とみなす人が大部分であろう。
 これは、いわゆる医学的理解である。もちろん、止めなければならないことを止められない点々、飲むと性格が変わって乱暴になる点などを病気と考える人もあろう。しかし、こういった文学的解釈は今や、少数派であろう。同様に、酒好きの度の過ぎた状態といった文学的な感覚の受け取り方もいまだに少なからず存在するし、これがアル中を病気とは考えない人びとの大半を占めている。

 この認識の差は、当人の飲酒体験、近親にアル中の者が存在するか否か、アル中を重症と思うかどうかなど、様々な生活体験や人生観によって成立している。しかし、大局的には過去には様々な人生観によって、文学的にアル中への見解が成立してきたとしても、今日では医学的見解の優勢が病気としての理解を押し広げるとみてよいのではないだろうか。
 一度、異物としての細菌を生体の敵と固定した医学は、異物としてのアルコールを敵とみなすのに、それほど難しさを感じない。同様に、感染症を病気とみなす国民はアル中を病気とみなすことへの抵抗感をなくす。
 この論理は、喘息にも当てはまる。喘息を引き起こす原因物質に、アレルゲンという名を与え敵視すれば、すでにアレルギーという病気は充分に病理学的にも、臨床的にも、通俗的にも立派な病気として成立する。
 もちろん、例外もある。感冒の多くは感染症であるが、感冒ぐらいは、という認識が残っている。アレルギーといっても、湿疹は病気とみなさない人もいよう。同様のことは、皮ふにできる腫瘍のうち、おできという一般名によって放胆される良性の幡揚もあることにみられる。そこには、誰もがしょっちゅう経験する、生命の大事に至らない軽症の事態は病気と考えないという風潮がある。この風潮には、体験してみてもよいといった大らかな方向性をもつものと、万病のもとという、すでに病気の一部として警戒する方向性をもつものとが混在している。
 つまり、細胞レベルでの敵の発見が、過去の個体における不幸なできごとを病気と定義づける方向に支配する形で病気領は形成されつつあるが、その通俗的不宰領の感じられ方によって、今のところC群に病気鋭のバラつきを生じさせている。
 主観的な感じ方は別にして、この道筋からいえば、病理学的な変化としては、溺水も同様に考えることができないだろうか。異物たる水が気道を塞ぐと考え、水を敵と考えれば、病気と考えてもよいはずである。実際、臨床的にも救命処置としては、島本氏のいう医学的・実証的治療が、今日溺水に対してはもっとも有効である。しかし、今のところ溺水を病気と考えることには、大方の納得が得られていない。もちろん次のように説明することは可能であろう。すなわち、事故とは、原因となった一瞬の間のできごとを意味し、病気とは、原因の如何によらずもう少し長い時間に及ぶ一つの状態である、というように理解することである。つまり、濁水という一瞬の事故によって、事故後の状態としての病気が出現するという考え方である。
 こういった考え方は、国語的解釈としては成立するのかもしれない。しかし、濁水で死んだという場合、濁水直後は事故死で、病院へ遅ばれてからは病死だというような理解の仕方は、日常的ではない。私は、A群とB群の問に介在する病気観の流動性を文化的な意識操作だと考える。


治療という幻想/石川憲彦 1988